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オペラを楽しむ

三島由紀夫原作 ヘンツェ作曲 オペラ「午後の曳航」 この空っぽの世界が美しく蘇る時 文=井上隆史

東京二期会では11月23日~26日までオペラ『午後の曳航』を上演します。三島由紀夫の傑作小説をオペラ化した本作品について、文学研究者の井上隆史さんに解説とその魅力をご紹介いただきました。

自己処罰する子どもたち

現代の子どもは忙しい。学校の課題、行事が多過ぎるし、塾や習い事もある。息抜きにスマホを手に取ると、今度は友だち関係を維持するためにラインをやったり動画を見たりしているうちに深夜となり、寝不足のまま学校に行って、やがて心身のバランスを崩してしまう。ところが、機会があってたまたま彼らと話してみて、驚かされることがある。自身の意志の弱さや要領の悪さを自分で責めて苦しんでいる子どもが少なくないのだ。私は彼らに言いたい。悪いのは君ではなく、君の心を圧し潰そうとする学校であり、大人であり、社会なのだと。これは、本オペラの原作、三島由紀夫が38歳の時に書いた傑作中編『午後の曳航』のメッセージでもある。

主人公の少年・登にとって、船乗りの竜二は社会のつまらないルールに囚われることのないヒーローだった。それが船乗りをやめ、すでに亡くなっている登の父親に変わって、新しい父になるという。物わかりのよい父となって楽しい家庭を築き、一緒に宿題を見てくれたりするというのだ。それは、登の心から登がもっとも大切にしていたものを奪うことであり、もしかしたら、竜二から竜二自身のもっとも大切にしていたものを奪うことではないのか。そんなことが許されてよいはずがない。登は仲間の少年たちとともに、竜二の「処刑」を決意する。そうすることによってはじめて、繊細な柱で組み立てられた少年の心の城は守られ、竜二もまた彼本来の存在に戻るのである。

これが『午後の曳航』の内容だ。ここには父と知らずに父を殺してしまい、母と知らずに母を妻としてしまったオイディプス王伝説に由来するソポクレスのギリシア悲劇『オイディプス王』のテーマを読みとることができる。精神分析家のフロイトは、これを少年の母親に対する秘められた性的衝動と父親に対する敵意として解釈した。オイディプスは幕切れにおいて、我が手でもって自身の目を潰してしまうが、それは父親殺しの罪に対する自己処罰を意味する。確かに『午後の曳航』の設定は、これを踏まえている。だが、三島の筆はその先に及んだ。むしろ、生き辛さに苦しむオイディプスに寄り添い、その魂を救い出そうとしているのだ。悪いのは君ではなく、君を翻弄する運命なのだと。

『午後の曳航』を執筆するにあたり、取材をする三島由紀夫。横浜・山手の港の見える丘公園の南に建つ洋館を、この作品の舞台に選んだという。
写真撮影=川島勝 提供=犬塚潔

2019年東京二期会オペラ劇場、宮本亞門演出『金閣寺』より。『金閣寺』以来、宮本さんがこよなく愛する三島作品に挑む。
ⓒ 三枝近志

魂の回生を!

実のところ、運命に翻弄されて心が圧し潰されているのはオイディプスだけでなくその父母もそうであり、登たち少年だけではなく竜二もまたそうなのだった。いや、それは私たち自身のことではないのか。皆、気づかぬふりをしているが、私たちの心の城はとうにボロボロの廃屋、空っぽの廃墟になってしまったのではないか。いったいいつ、どうしてこんなことになってしまったのだろう? ひょっとすると、この世に生まれた時、私たちの心はすでに圧し潰されていたのかもしれない。なぜなら現代社会は、高速で回転する無人の巨大圧搾機と化してしまったのだから。それは日本だけのことではない。2020年12月15日、日本時間午前3時、ウィーン国立歌劇場で開演したこのオペラ(タイトルはDas Verratene Meer『裏切られた海』)がライブ・ストリーミング配信されるのを、私はただひとり自室で見たが、パンデミック下の無観客公演のため、圧倒的な迫力に満ちたヘンツェの音楽が終っても、それにふさわしい喝采はなく、無音のまま暗転するスクリーンは、現代の凍りついた実相を正確に映し出すようでおぞましいものがあった。

しかし、時代の模写はヘンツェの意図の前提ではあっても、そのすべてではない。むしろ彼は圧し潰された心を音楽の力で蘇らせようとした。魂の回生は、むろん三島の祈りでもある。

すでに現代オペラの傑作古典としての評価が定まっているこの作品が、演奏会形式ではなく、実際に舞台で上演されるのは日本では初となる。もちろん、観客を迎えての公演である。今回、宮本亞門氏の演出を得た東京二期会公演が、どのように時代を捉え、私たちの魂と世界を蘇らせてくれるか、待ち遠しい思いだ。

井上隆史 Takashi Inoue

日本近代文学研究者。白百合女子大学文学部教授。1963年横浜生まれ。『暴流(ぼる)の人 三島由紀夫』(平凡社、2020年)で読売文学賞。ほかに『三島由紀夫 幻の遺作を読む―もう一つの「豊饒の海」』(光文社新書、2010年)、『津島佑子の世界』(編著、水声社、2017年)など。『決定版 三島由紀夫全集』全42巻・補巻・別巻(新潮社、2000~06年)で編集協力。

東京二期会オペラ劇場 ヘンツェ『午後の曳航』

オペラ全2幕 日本語字幕付原語(ドイツ語)上演
指揮:アレホ・ペレス 演出:宮本亞門
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団

日生劇場 2023年11月 23日(木・祝)17:00、24日(金)14:00
25日(土)14:00、26日(日)14:00