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オペラを楽しむ

知るようで知らないオペラ『蝶々夫人』

写真:三枝近志

~知るようで知らないオペラ『蝶々夫人』~音楽評論家 萩谷由喜子

今年10月、『蝶々夫人』が宮本亜門演出で新たに上演される。
世界で最も親しまれているオペラ作品の新たな幕開けを前に、今一度その魅力を探ってみよう。

蝶々夫人を当たり役とした伝説のソプラノ、ジェラルディン・ファーラー。作曲家プッチーニの前でも同役を歌ったと言われる。1908年頃の写真。

Bain News Service, via Wikimedia Commons

A.Dupont, New York, via Wikimedia Commons

オペラ・ファンのハンカチを濡らしてやまないプッチーニの『蝶々夫人』は、明治後半の長崎を舞台とする。ヒロインは15歳!の芸者、蝶々さん。現代ならまだ中学三年生なのに、アメリカの海軍士官ピンカートンと結婚することになった彼女は、胸をときめかせながら彼の家にやってくる。

実はお察しのように、これは正規の結婚ではなく、外国人男性が周旋業者に金銭を支払って一定期間だけ日本女性を妻代わりとする、契約結婚だった。だからピンカートンは、蝶々さんの到着を待ちながら友人の長崎領事シャープレスと祝杯をあげるときにも、「やがて本当の結婚をするアメリカの妻のために」などと、うそぶいている。当時の外国人居留地ではそうした風習がまかり通っていて、周旋業者は天下公認、違法でも何でもなかった。

ところが、天真爛漫な蝶々さんは、この〝結婚〟を真実の結婚と信じていた。ここにこそ、悲劇の根源があった。

さて、蝶々さんと母親、友人たちが到着して結婚の署名も済み、祝宴に入ったとき、蝶々さんの伯父にあたる僧侶ボンゾが乱入し、「蝶々さんは先祖の宗教を捨てて、アメリカの宗教に改宗した裏切り者だ!」と叫ぶので、お祝いムードは一変する。怒ったピンカートンは一同を追い返す。嘆き悲しむ蝶々さんをピンカートンがやさしく慰め、二人が愛の二重唱を歌うところまでが第一幕である。

第二幕は、第一幕から三年後の蝶々さんの家。ピンカートンはすでに帰国して久しく、蝶々さんは、彼の帰国後に生まれた子供、忠実な女中のスズキとともに、〝夫〟の帰宅を待ち続けている。あくまでも彼を信じる蝶々さんの歌うアリアが、有名な〈ある晴れた日に〉である。内容は現実のシーンではなく、こうあって欲しいと夢見る、彼女の空想の産物なのが憐れを誘う。

そこへ、シャープレスがピンカートンの手紙を携えてきた。それは絶縁状なのだが、蝶々さんが愛の手紙と思い込んで目を輝かせるので、シャープレスはもう何も言えなくなってしまう。

次いで、周旋人のゴローが金持ちのヤマドリ公を、次の〝結婚〟相手として連れてくる。すげなく拒絶する蝶々さんに、シャープレスが、ヤマドリ公を受け容れてはどうかとほのめかすと、蝶々さんは奥から子供を連れてきて彼にみせる。驚愕するシャープレス。

ついに港に空砲が轟き、ピンカートンを乗せた船が入港してきた。躍り上がって喜んだ蝶々さんは、部屋中に桜の花びらを撒き、一晩中寝ずに彼の帰宅を待った。

1904年ミラノ初演時のポスター。

ハミング・コーラスのうちに夜が明けると、そこからは第三幕となる。シャープレスとピンカートンがやってきて、こっそりスズキを呼び出す。

「子供を渡すよう、おまえから蝶々さんを説得して欲しい」

ピンカートンは足早に逃げ去った。人の気配に、蝶々さんが飛び出してくると、そこにピンカートンの姿はなく、庭の隅に見知らぬアメリカ人女性がたたずんでいた。すべてを悟った蝶々さんは、子供の引き渡しを承知し、30分後にきて欲しいと女性を去らせ、父の形見の短刀を取り出して、その銘を声に出して読む。

「名誉を持って生きられぬ者は名誉を持って死ぬ」

走り寄ってきた子供を抱きしめ、悲痛な別れのアリアを歌った後、彼女は短刀を自らに突き立てる……。

このように、『蝶々夫人』は愛と裏切りのドラマだ。〝夫〟と信じたピンカートンを一途に愛し、その裏切りを知ったとき、愛に殉じる道を選んだ蝶々さん。彼女の愛の深さと純真さ、そして日本女性らしい誇りの高さが、観る者の胸を揺さぶる。しかも、舞台はエキゾチックな日本の港町、長崎。音楽には8曲もの日本音楽の旋律が巧みに盛り込まれ、欧米の人たちにとって、得も言われぬ異国情緒を感じさせるものになっている。

だが、日本に来たこともないプッチーニが、なぜ、こんなオペラを書くことができたのだろうか?

このオペラには、アメリカの作家ロングの小説、及び、それをもととする劇作家ベラスコの戯曲という二つの原作がある。ロングは宣教師の妻として長崎駐在経験のあった姉の土産話をもとに原作小説を書き、それをベラスコが戯曲化した。そして、その戯曲を観たプッチーニが心を奪われ、苦心惨憺してオペラ化したという流れである。

興味深いことに、小説も戯曲も、現在ではほとんど読まれない、上演されないのに対して、プッチーニのオペラは世界中を席巻している。どうやらオペラには、二つの原作にない魅力があるようだ。

その理由の一つは、プッチーニが、ある一人の日本女性から、日本の風俗、習慣はもとより、日本女性の倫理観、ものの考え方、そして何よりも、日本音楽の旋律をこと細かく教えてもらい、それをオペラに反映させたことにあった。

その女性の名は、大山久子。当時の駐イタリア特命全権公使、大山綱介の妻として1899年から1906年までイタリアに駐在し、この間、プッチーニと親交があった。

イタリア時代の大山久子。
中央公論新社刊 「『蝶々夫人』と日露戦争」(萩谷由喜子著)より転掲。

長州藩の重職の娘として生まれた久子は、18歳の時、伊藤博文夫妻の媒酌で薩摩藩出身の外交官、大山綱介の妻となり、結婚の翌月、夫のパリ赴任に同行する。若い頃からフランス語を勉強してこの言葉に堪能だった夫とは異なり、外国語などまるで知らなかった彼女は、当初は泣きたい思いだったが、猛勉強の末、言葉の壁を取り払っている。その後、ウィーンではドイツ語を、ローマではイタリア語を習得して交際の輪を広げ、外交官の妻の役目を立派に果たした。

幼少時から箏曲を習っていた久子は、マルゲリータ皇太后の前で日本の箏を弾いて聴かせたこともあった。そんな彼女はプッチーニにとって、願ってもない助言者だった。

久子はプッチーニと何度も会見して、彼の質問に丁寧に答え、わざわざ日本から日本音楽の資料も取り寄せて彼に提供した。それらの一部は、オペラ『蝶々夫人』の中に脈々と生きている。

蝶々さんの潔さに涙する時、〈お江戸日本橋〉〈さくらさくら〉などの旋律をこのオペラの中に聴き取る時、その陰に、プッチーニに助言した一人の聡明な日本女性の存在があったことを、我々は誇らしく思ってよいのではなかろうか。

1903年に刊行されたジョン・ルーサー・ロング『マダム・バタフライ』の表紙。中央公論新社刊 「『蝶々夫人』と日露戦争」より転掲。