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オペラを楽しむ

今こそ観るべき!コンヴィチュニーの最高傑作『魔弾の射手』

ハンブルク州立歌劇場との共同制作
東京二期会オペラ劇場 コンヴィチュニー演出『皇帝ティトの慈悲』
©三枝近志

オペラのストーリーには、ちょっとヘンなところがある。ウェーバーの『魔弾の射手』もそうだ。たとえば、銃で撃たれたはずの花嫁はほんの10小節足らずで生き返るし、重大な過失を犯した主人公は唐突に登場した隠者によって許しを与えられ、すべてがめでたしめでたしで終わってしまう。そのあまりにもご都合主義な展開が、ちょっとウソくさくない? と思う人だっているはずだ。この作品のテーマが、日常性を非日常性の力を借りて乗り越えようとする物語だとしても。

おそらく、かつての時代には今のリアルと違ったリアルがあったのだ。たとえば、神がいると信じられた時代、あるいは身分制がはっきりとあった時代には、神様や偉い人が最後にうやうやしく登場、すべてを解決するのは、それほど不自然なストーリーではなかった。逆に、それがリアルな現実として受け取られていたのだ。

しかし、そうしたものを現代の舞台でなんの工夫もなく上演すると、はるか遠くにある自分と関係のない世界を見ているような感覚になり、登場人物の心情といったものになかなか溶け込めないということもおきる。とくに『魔弾の射手』は、それぞれのキャラクター感を十二分に生かしたアリア、ドラマティックな音楽が魅力のオペラだ。その充実した音楽をより生かすために、そのストーリーを現代人にも通じる感覚に沿うように見立てる「演出」が必要になる。

ペーター・コンヴィチュニーは、そうした筋書きをもったオペラでも、現代のわたしたちの身近にぐっと引き寄せることができる、世界でも有数の演出家だ。オペラは伝統芸能だから当時の価値観そのまま忠実に再現すればいいと主張する人からみれば、彼の演出はしばしば逸脱した、過激なものとして受け取られることも少なくない。

だが、それは一面的だ。なにしろ、コンヴィチュニーほど「作品」、あるいはその「音楽」に忠実な演出家はいない。ただ、その作品や音楽の意味を浮き彫りにするためなら、どんな破天荒なことだってやってしまうだけだ。その一途な熱意が過激な印象を持たれやすいのだろう。

コンヴィチュニーは、オペラを伝統芸能にも、舞台を単に現代に置き換えただけの現代劇にもすることはない。その作品が生み出されたときに、人々に与えたインパクトを現代の観客にどう伝えるかについて努力を怠らない。観客を大いに驚かせ、笑わせ、ときには戸惑わせつつも、現代に生きる我々にとって、作品の主題がいかなる意味があるのかを挑発的に問い質す。オペラという音楽劇にしかない魅力を執拗に追求する演出家なのである。

東京二期会オペラ劇場 コンヴィチュニー演出『エフゲニー・オネーギン』
©三枝近志

コンヴィチュニー演出の『魔弾の射手』は、1999年にハンブルク州立歌劇場でプレミア上演された。その直後、その公演中継がドイツのテレビで放映され、たまたまベルリンに滞在中だったわたしは、それを食い入るように見て、大いに感激した。これまでこの作品に抱いていた、もやもやした違和感がすべてこの演出で解消され、しかも強烈なエンターテインメント(もちろん、それは毒をたっぷりと含んでいるのだけれど)に仕上がっていたからだ。それからは、毎年のようにハンブルクを訪れ、彼の演出するオペラに接するのが楽しみの一つになった。

コンヴィチュニーにとっても、このハンブルクで演出した『魔弾の射手』と『ローエングリン』(学校の教室が舞台になっていて、ローエングリンは転校生!)は、ヨーロッパ中に彼の名声を響き渡らせた舞台となった。

なんといっても、この『魔弾の射手』では、巧みに仕掛けを凝らした舞台に、現代演劇を思わせる空間の利用など、それぞれが面白い発想や娯楽に留まらず、作品の本質に結びついている。また、かつてリアルだったものと現在のそれに、はっきりと線を引くことで、それぞれのリアリズムも明確に浮かび上がる。さらに公演後、観客である我々もこの物語を支えているナニモノかと知らないうちに共犯関係を結んでいることに気づき、愕然としたり……。

ハンブルク州立歌劇場でのコンヴィチュニー演出『魔弾の射手』
©Jörg Landsberg

インターネットを通じた情報共有が増したせいか、最近は「ネタバレ」にうるさい世の中になった。これ以上詳細に語ると、完全にネタバレになってしまう。もちろん、ネタなどバラしてもその面白さ、深さは減じることはないが、オペラだって「この後、どうなってしまうのだろう」というドキドキ感をもって見たほうが絶対にいい。

さらに、今回の二期会での公演は、これまで行われた彼の演出から少なからぬ変更があると小耳に挟んだ。セリフの部分も日本語になるというから、より踏み込んだ内容も期待できよう。ドキドキ感は増すばかりだ。

文・鈴木淳史