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ローエングリンという音楽の奇跡 茂木健一郎

アルトゥール・ティーレによるイラスト

『ローエングリン』の最大の聴きどころは、その中に、人間の無意識の機微が捉えられているというところだろう。

人間の無意識を「再発見」したのはジークムント・フロイトであるが、フロイトよりもずっと前に、ワーグナーは、芸術家の直観で、私たちの無意識の中にうごめく様々な情動を音楽にした。

だからこそ、『ローエングリン』は、聴き終えた時に深い満足と慰撫を与える。普段の生活の中でさまざまなストレスを受け、歪んでしまっている私たちの無意識が「マッサージ」を受け、劇場を出る時には脳がより健やかになっているのだ。

「予感」は、私たちの無意識のすばらしい働きの一つである。希望や不安といった、どうなるかわからない未来に対する向き合いの感情が、時間の流れの中で生きざるを得ない私たちの命を支えてくれる。

『ローエングリン』の前奏曲の最初から、私たちは一つの「予感」の中にいる。それは、エルザの夢の中で待ち望まれる一人の騎士、ローエングリンの予感だ。

危機(emergency)は、創発(emergence)に通じる。存在を脅かされる時にこそ、私たちはそれを救ってくれる何ものかを予感する。それは最高の創造性の顕れである。エルザは、ワーグナー自身の無意識の象徴でもあるのだ。

やがて姿を表したローエングリンは、エルザに、自分の名前や正体を聞いてはいけないと禁じる。ここには、「信じる」という無意識の働きについての、深い洞察がある。

一般に、私たちが何かを信じて、受け入れる時に、そこに具体的な理由や根拠があるとは限らない。私たちはむしろ、自分の直観を信じて、暗闇への必死の跳躍を試みるのだ。

逆に言えば、そこに、信じるということのあやうさがある。ローエングリンの登場や語りをめぐる音楽は清澄な美しさに満ちていて、輝かしい。だからこそ、エルザや他の人たちは、白鳥の騎士を信じようとするのだが、無根拠なだけに、騙されている可能性もある。

美しく、雄々しいからと言って、信じていいのか。それは、一つの魔法である可能性はないのか。ローエングリンの正統性をめぐる音楽的葛藤は、国家や通貨の正統性にもつながる、極めて現代的な問題でもある。

そもそも、白鳥の騎士をめぐるファンタジーを扱う『ローエングリン』の音楽が、現代性をも持つのはなぜか? つまり、私たち人間の無意識が古来変わらないからである。

ローエングリンは勝ち、エルザは救われるが、エルザが、無根拠で白鳥の騎士を信じたことの矛盾は、ずっと不気味な通奏低音として響き続ける。オルトルートがエルザに疑念を植え付けようとする時の音楽は暗く、迫力があるが、このオルトルートの声は実はエルザの無意識でもある。

右 リヒャルト・ワーグナー(1860年頃)
左 『ローエングリン』パリ初演で主役を演じたエルネスト・ヴァン・ダイク

ローエングリンを、エルザの無意識の葛藤として見た時の最大の聴き所は、三幕の二重唱だろう。ローエングリンが自らの背景の輝かしさを強調すればするほど、エルザは白鳥の騎士に愛されるだけの資格がないと思い込み、騎士に対する自分の価値を担保する保証として、その正体を知ることを望む。結婚式の有名で甘美な旋律が次第に疑心暗鬼に支配されていってしまうその経緯を描いた音楽は、人間の無意識の抑えようのない動線の表現として、古今東西、第一のものである。

ワーグナーの作品は、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』や、『パルジファル』においても見られるように、大団円の前に、心理的なドラマは頂点を迎えることが多い。ローエングリンの実質的な「心の劇場」はエルザが禁じられた問いを発した時点で帰結している。その後の「グラール語り」は、感動的かつ付加的なコーダである。

『ローエングリン』の、以上のような無意識の深海に根ざした力学が、人々を強く惹きつける理由である。バイエルン国王ルートヴィッヒ二世がワーグナーに熱狂した理由も、『ローエングリン』だった。自分の無意識という井戸に降りていくことを知っている聴き手にとって、『ローエングリン』は尽きることのないインスピレーションと真実の源である。

『ローエングリン』という音楽の奇跡は、無意識が音楽化されることで、元々は存在しなかった世界の似姿が生み出されている点にあると言えるだろう。

エルザの夢も、ローエングリンによる問いの禁止も、そのモティーフは確かに私たちの無意識の中にあるのであるが、音楽になることで別世界に浮遊し始める。だからこそ、私たちの魂を深いところで慰撫する。

劇場に座り、灯りが消え、前奏曲の最初の音が響く時、私たちは自分たちの無意識が翼を得てどこまでも澄み渡った空に羽ばたいていく、類まれな瞬間を経験するのだ。

茂木健一郎
Kenichiro Mogi

脳科学者。意識の中で感じられる質感「クオリア」を鍵として、脳とこころの関係を研究している。好きなオペラ作曲家は、ワーグナー。『ジークフリート』三幕のブリュンヒルデとの二重唱が、ワーグナーの音楽の頂点だと考えている。