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オペラを楽しむ

『ウィーン気質』を楽しむために 小宮正安

ウィーンバレエの舞踏会の様子
Opera Ball in Vienna Ballett Photo by Wiesenhofer
以下、写真すべてオーストリア政府観光局 ©Österreich Werbung

なぜ『ウィーン気質』?

 単刀直入に始めよう。なぜ当オペレッタの題名は『ウィーン気質』なのか?理由は、台本を担当したヴィクトール・レオン(1858-1940)とレオ・シュタイン(1861-1921)のコンビが書いたあらすじにある。

 簡単にまとめるならば、『ウィーン気質』で描かれているのはウィーン vs. 東部ドイツの文化闘争…、などと書くとおおげさだが、彼の地出身の堅物大使の夫に、ウィーン子の貴婦人が愛想を尽かす、というところから物語は始まる。何しろウィーン子ときたら、「力に満ちて、燃え立って…♪」という気質の持ち主ゆえ、件の貴婦人も人生を大いに楽しむことを旨としてきたのだから。

 そのことを知った堅物夫は、大反省。今や様々な女性と浮名を流して人生を謳歌し始めたのだが、ウィーン子の妻はそれに不快を示すどころか鷹揚に受け流す。(何とも寛容、いやしたたかですね。)ところが夫は一国の大使という重要人物ゆえ、周囲がそのような「乱行」を放っておくはずもない。国家の対面を取り繕おうとする大臣や、夫の新たな浮気相手が登場してお決まりのドタバタが起こるが、オペレッタらしく最後はめでたし、めでたし。皆で「♪ウィーン子の血/それはウィーンだけのもの」と唱和して幕となる。

ヨハン・シュトラウスの時代の舞踏会の様子
Ball at the time of Johann Strauss Historical
painting (1876) in Vienna
Strauss Museum in Vienna
Photo by Trumler

ウィーンの舞踏会の様子
Opera Ball in Vienna/Vienna State Opera
Photo by Lammerhuber

それは祝賀ワルツから…

 それにしても、オペレッタ『ウィーン気質』そのものの始まりは、皇族の結婚を祝う舞踏会用の新作ワルツだった…。

 時は1873年。オーストリアを中心に、ヨーロッパの中央域に巨大な帝国を築いていたハプスブルク家の皇女が、隣国のバイエルン王国の王子と婚礼を挙げることとなった。これを受け、帝都ウィーンでは続々と祝賀イヴェントが開かれる。その一環として、ウィーン宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)が主催し、3年前に完成したばかりのウィーン楽友協会新会館を会場として、舞踏会がおこなわれる運びとなった。

 ちなみに舞踏会といえば、ウィーンの代名詞のような存在。それに加え、「音楽の都」の象徴である宮廷歌劇場が、これまた「音楽の都」を代表する楽友協会新会館でイヴェントを催すとなれば、高い音楽性が求められるのは当然だ。というわけで、ウィーンを本拠地に、優れたダンス音楽で世界中を魅了しているシュトラウスのもとに、この舞踏会で新作ワルツを披露してくれるよう依頼が舞い込む。

 結果生まれたのが、ワルツ『ウィーン気質』。舞踏会当日は、作曲者自らがヴァイオリンを片手に、ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)のメンバーを指揮し、新作を披露した。

オペレッタの大家

 ところでシュトラウスは当時、ダンス音楽で培ったノウハウを基に、喜劇的なオペレッタを手がけ始めていた。結果、『こうもり』や『ジプシー男爵』といったヒット作品が数多く生まれ、彼はオペレッタの大家として名を馳せてゆく。(ちなみに後半生のシュトラウスは、まずオペレッタを作曲した後、そこで用いられたメロディを基に、ワルツやポルカの「新作」を発表するというプロセスを取るようになっていった。)

 このように生涯にわたって旺盛な活動を続けていたシュトラウスだが、晩年には体力の衰えが目立っていった。にもかかわらずシュトラウスの新作を求める声は根強く、それを受けて彼のもとを訪れた劇場支配人や台本作者、さらには家族の説得もあって、御大もついに首を縦に振る…。

 といっても、新たに曲を作るのはさすがにしんどかったのだろう。かつて発表した幾つものダンス音楽を編み直したものに、シュトラウス自身がお墨付きを与える、という方法がとられた。曲の編纂にあたったのは、アドルフ・ミュラー(1839-1901)。結果、ワルツ〈レモンの花咲くところ〉〈朝の新聞〉、ポルカ〈浮気心〉等、シュトラウス作品のコンピレーションともいえるオペレッタ『ウィーン気質』が生まれることとなった。

巧みな台本作家たち

 こうして産声をあげたオペレッタ『ウィーン気質』には、タイトルを見ても当然のように、ワルツ〈ウィーン気質〉のメロディがふんだんに用いられている。いわば当オペレッタのメイン・テーマともいえる位置づけで、一度聴いたら忘れられない。

 そんなメロディに、これまた耳に残る歌詞を付けたのが、最初に触れたレオン&シュタインの台本作家コンビだ。彼らは1905年に、フランツ・レハール(1870-1948)が作曲したオペレッタ『メリー・ウィドウ』で一躍名を馳せることとなるが、その片鱗は『ウィーン気質』にもうかがえる。

 何しろオペレッタが作られる場合は、まず台本が書かれ、それに合わせて曲が付けられるという工程が普通であるところを、先に音楽が存在し、後から歌詞をつけてゆかなければならないという大変な作業だった。ところが、そんな事情があったことなど微塵も感じさせぬほど、どのナンバーを聴いても曲と歌詞とがぴたりと一致している。

 それどころか、先ほど挙げたワルツ〈ウィーン気質〉のメロディなどは、最初からこの歌詞を想定して書かれていたのではないかと思いたくなるほど。「♪ウィーン子の血/それはウィーンだけのもの/力に満ちて、燃え立って…♪」

ウィーン・シュトラウス博物館所蔵の
ヨハン・シュトラウスの絵
Johann Strauss historical drawing
Strauss Museum in Vienna
Photo by Trumler

ウィーン市立公園にある
ヨハン・シュトラウス像
Monument of Johann Strauss Vienna
Photo by Mayer

ウィーンバレエによる舞踏会
Opera Ball in Vienna Ballett
Photo by Wiesenhofer

人生の楽しみと過去への眼差し

 ところで台本で指定されているオペレッタの舞台は、19世紀初頭のウィーンだ。「会議は踊る」で有名なウィーン会議が開かれている最中であって、そのため東部ドイツの大使や大臣がウィーンへやってきた。つまり、この作品が構想された90年ほど前のウィーンを描いたもので、そこには過去への眼差しが映し出されているとも考えられる。

 ウィーンは19世紀半ばから始まった都市改造を通じ、近代都市へと発展した。街は、未曾有の好景気に沸き立った。だがその陰で、公害や恐慌といった近代都市の宿痾(しゅくあ)ともいえる問題が起こり、繁栄の裏側で漠然とした不安が高まりつつあった。そんな中、「昔はよかった」というノスタルジーと、それにもかかわらず人生を楽しもうとする意欲に満ちた「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世(1825-99)の音楽が、『ウィーン気質』では渾然一体となっている。

 実のところ、シュトラウスがこの作品の完成を目にすることはなかった。初演がおこなわれたのは、彼が世を去ってから約4ヵ月後。それは、いついかなる時も弾むようなダンス音楽でウィーン子を鼓舞し続けた「ワルツ王」への追悼行事であり、一つの時代の終わりを告げ知らせるものだった。と同時に、この時代だからこそ生まれた唯一無二のウィーン讃歌として、オペラ『ウィーン気質』は徐々に人気を博し、現在ではウィンナ・オペレッタの代表作として世界中に知れ渡っている。

夜の街に輝くウィーン国立歌劇場
Opera House in Vienna / Staatsoper Photo by Viennaslide