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「『魔笛』の二つの演出〜宮本亜門と実相寺昭雄 文◎林田直樹

 ザルツブルク・モーツァルテウムの室内楽ホールの中庭で、モーツァルトが『魔笛』を書いた際にエマヌエル・シカネーダー(台本作家・演出家・興行師・歌手 1751─1812)が用意したという小さな作曲小屋を、宮本亜門さんと一緒に見たことがある。
 それは2~3畳程度の広さの、机と椅子があるばかりの、簡素なガランとした監禁部屋のようなもので、窓もなく、真昼でも中はゾッとするほど真っ暗だった。こんな閉所の闇の中でモーツァルトはあの『魔笛』を作曲していたのかと驚いた。むろん観光地の展示物のようなものだから、信憑性についてはわからないが。だが、あの多忙なモーツァルトに仕事をさせるために、シカネーダーが無理やり閉じ込めたというのは、いかにもありそうな話ではある。

 亜門さんとは、1990年代、雑誌の連載を通じて、よく一緒に仕事をさせていただき、何度か旅行もご一緒した。あの頃から亜門さんの胸中には『魔笛』の演出構想が温められていたことを、私は知っている。だから、二期会とリンツ州立歌劇場との共同制作で『魔笛』を演出することを聞いたときに、その当初構想がどの程度生かされていくかにも私は関心があった。
 リンツには行けなかったので、参考用の記録映像を拝見させていただいたが、ハイテクな映像や照明技術を駆使した魔術的な舞台とそのコンセプトに、まず強烈な印象を受けた。そしてそこには、20年以上前からの亜門さんの『魔笛』演出構想に通じるものはやはりあった。それは、タミーノがおとぎの国の王子様なのではなく、いわゆる「立派な男」の役割を女たちによって演じさせられる現代の平凡な男として設定されている点である。そこには理想と現実の葛藤が生々しく描きこまれている。輝かしい都会の中心部にある神殿にザラストロたちの教団はあり、夜のスラム街のような場所や廃墟がそれに対比される。タミーノやパパゲーノを導く3人の童子は、現実の家庭の子どもたちと重ねられている。頻繁に表れるのは、渦巻くような巨大な黒雲、月、星、地球や宇宙といった俯瞰的でダイナミックな背景の動きである。今回の亜門さんの『魔笛』は、単なる絵空事やメルヘンとして扱われるのではなく、人間の文明の過去と未来が暗示され、随所に「私たちの物語」として、リアリティをもって感じようとする姿勢で作られていると感じた。さすがである。

2013年9月リンツ州立歌劇場『魔笛』 指揮:デニス・ラッセル・デイヴィス/演出:宮本亜門 ©Reinhard Winkler

 長年、亜門さんが『魔笛』のアイディアを温めていたのと同じように、同じ二期会で何度か『魔笛』を演出された故・実相寺昭雄さんも、実はこの作品に関しては並々ならぬ思い入れがあった。
 亡くなる数年前のこと、何かの折に実相寺さんと、多田羅迪夫さんたちとで『魔笛』をテーマに取材を兼ねて酒を酌み交わしたとき、実相寺さんはこう言っておられた。
「一度でも『魔笛』を演出できたら、死んでもいいと思っていた。だけどその夢がかなうと、欲が出て、また何度でもやりたくなるんだよね」
 そう語る実相寺さんは本当に幸せそうだった。亜門さんと同じように『魔笛』の音楽を愛しぬいていることは瞭然としていた。
「円谷プロから怪獣を何体か借りようと思っている」という実相寺さんに、「それはバルタン星人ですか、ピグモンですか、いやぜひこの二つは入れてほしい」と気が急くように質問すると、それをうれしそうにさえぎりながら、どんな怪獣を選ぼうかと迷ってみせる姿は、それだけでもう至福の気分とみえた。漫画家の加藤礼次朗さんによるアニメ的な衣装デザイン画を見せて下さったときの得意そうな雰囲気も忘れられない。特に日本的で凛々しいタミーノのイメージは鮮烈であった。
 よく覚えているのは、3人の童子に少年を使うのかと聞いたときに、断固として「いや、子供は使わない。ソプラノにやってもらう」と即答したことである。リンツでの亜門版『魔笛』が子供であることの必然性を持っていたのとは対照的だ。
 いまこうして思い返してみると、実相寺版『魔笛』は、おおらかで、ユーモアとギャグがあって、人懐こくて、幸福感あふれる世界だった。その底には厳しい細部へのこだわりがあった。冒頭の大蛇はまるで電車のようなメカニックなお化けとして出てきたが、そこには鉄道オタクの実相寺さんならではの、ひねりの効いた機械文明へのノスタルジーがさりげなく表明されていた。「酒だけが友達だ」とこぼすパパゲーノの姿は、実相寺さんの人生への本音そのものが託されていた。そこにはある種の優しさがあった。
 対する亜門さんのリンツでの新しい『魔笛』は、安易に語られがちな理想の家族や愛といったものに現実の自分を合わせられずにいる人たちの、苦しみや不安への洞察がまずあり、そこから救いを見出そうとする過程がオペラと重ねられているようだ。パパゲーノとパパゲーナの有名なエピソードも、楽観的な家族観を決して押し付けない。ザラストロの神殿は盤石に見えてどこか脆い積み木のようでもある。それらのディテールの根底には、やはり優しさの視線があるように思う。何もかもが虚像のようにヴァーチャルな雰囲気を持っているのは、いかにもインターネット時代ならではのあやういリアリティをも孕んだ『魔笛』とも言えそうだ。

 モーツァルト『魔笛』の音楽を絶対神聖視する声は多い。音楽家の側からすれば、これほど天上の美しさをもった音楽を視覚化するなど到底不可能、どのような演出であろうとも邪魔なだけだとの極論も聞く。たとえば故・若杉弘さんはそのような考えの持ち主であった。演出にあれほど造詣の深い方だからこそ、その意見には重みもあった。
 だが、舞台という営みは、すぐれて生々しく人間的であるところにこそ、やはり価値がある。モーツァルトがシカネーダーの作曲小屋に幽閉されて仕事をしていたとき、彼らの間の共同作業は、決して硬質なものだったわけではない。柔軟で、臨機応変で、1回ごとに異なり、完全ではないがゆえの輝きを持っていた。
 ここ10年ほど、モーツァルトのオペラの解釈について最も刺激的な視点を与えてくれた著書のひとつに、「モーツァルト 魔法のオペラ」(アニー・パラディ著、武藤剛史訳 白水社)がある。モーツァルトのオペラはすべてイニシエーション(通過儀礼)の性格を持っているとそこでは述べられているが、それを最も典型的に表しているのがこの『魔笛』であろう。
 つまり、若い男女が、人生や愛の本質を知るために、冒険と出会いをし、錯誤と絶望を経由し、フリーメイソン的な暗示はあるにせよ、要するによき導き手を得て、成長して大人となって結ばれていくという話なのである。主人公タミーノが「日本の狩衣を着た皇子」とされているのは、要するにどこの時代ともどこの国ともわからないほど夢想の世界での出来事、という意味だろう。だが、そのメルヘン世界を、ただ綺麗なまま絵空事にようにやるのではなく、人間の物語としてさまざまな方法によって強く抱きしめることが肝要である。たとえば、家父長的な権威を体現するザラストロの教団を、人間的な視点によって解き明かすことも、そこでは演出的にはどうしても必要となってくる。それでこそモーツァルトはより多くの現代人に真に強く共有されることだろう。
 答えは決してひとつではない。亜門さんなりの『魔笛』が2015年7月の制作でさらにどう進化しているかが楽しみである。

2010年9月東京二期会オペラ劇場『魔笛』 指揮:テオドール・グシュルバウアー
演出:実相寺昭雄 新国立劇場 オペラパレス 撮影:鍔山英次
衣裳デザイン画と公演プログラム表紙

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