TOKYO niki kai OPERA FOUNDATION NEW STYLE OPERA MAGAZINE

ENGLISH

オペラを楽しむ

種々様々のドン・ファン

文・佐藤 亜紀

 libertin─リベルタン、という言葉がある。もとはラテン語のlibertinus から来た言葉で、解放された奴隷を指した。英語ではlibertine─リバティーン。自由─Liberty を含むこの単語は、17世紀頃から自由思想家を意味する語として用いられるようになった。
 何から自由なのか。この場合は、キリスト教の信仰から、である。自分はキリスト教の信仰から自由だと自認するリベルタンは、当然ながら、キリスト教の道徳からも自由に振る舞う。そこから、2番目の、より多く用いられる意味が派生する。即ち、放蕩者だ。

イングランドの貴族で詩人
第二代ロチェスター伯ジョン・ウィルモット

 ジョニー・デップが主演した映画「リバティーン」の主人公、酒と女性関係に溺れて身を滅ぼす破滅型の天才詩人第2代ロチェスター伯ジョン・ウィルモット(1647-1680)は実在の人物だが、彼はこの意味でのリベルタンの典型だと言っていいだろう。そこから、酒色と哲学談義に耽りつつ悪逆非道の限りを尽くすサド侯爵(1740-1814)の猥本の登場人物までは時代がそう遠くはない。冷酷な恋愛遊戯に耽りながらも僅かに残った人間らしさ故に滅びて行く「危険な関係」のヴァルモン子爵も、

サド侯爵 サディズムの語源

そうしたリベルタンの典型だと言える。一方、18世紀の啓蒙思想家ドニ・ディドロ(1713-1884)の研究者であるエリック・エマニュエル・シュミット(1960-)は、戯曲「リベルタン」で、百科全書を巡るトラブルを片付ける傍ら、美貌の女賊と恋の駆け引きを繰り広げるディドロを主人公に、軽妙洒脱な戯曲を書いている。明るいリベルタンから暗いリベルタンまで、この振幅を扇の要のように纏めるのは、神なき人間の自由であると同時に、神なしで生きられると自負する人間の倨傲だと言えるだろう。

2001年二期会公演『ファルスタッフ』(演出:井田邦明)ファルスタッフ:直野 資 アリーチェ:川原敦子 撮影:竹原伸治

 ドン・ファン、ドン・ジュアン、ドン・ジョヴァンニ─言語によって呼び方を変えるこの名は、英語ならただの「ジョン」だが、サー・ジョン、と言って我々が思い浮かべるのは、シェイクスピアの創造した、「自由思想」など身も蓋もない洒落で笑い飛ばしてはばからないであろう酔いどれフォルスタッフなのはなかなか愉快ではなかろうか─は、そうしたリベルタンのキャラクター化された形と言えるだろう。ドン・ファンは、ファウスト博士やドン・キホーテ、もしかするとサー・ジョン・フォルスタッフと並ぶキャラクターとして、ティルソ・デ・モリーナ(1579-1648スペイン)の「石の客」以来、創作者の想像力を捉えて離さない。基本として外してはならないモチーフの多重性も魅力的だ。ドン・ファンの騎士長殺しはどう捉えるべきだろう─いつもの極悪非道な犯罪なのか、それともそこには何か別なものがあるのか。ドンナ・エルヴィーラとの腐れ縁はどう描いたものだろう。従僕スガナレルまたはレポレッロとの関係は?ドン・ファンは地獄に堕ちるのか。落ちるとしたらどんな風に?或いは、ドン・ファンは改心するのか、そもそも出来るのか、それともそれは偽善という新たな段階への飛躍なのか。

1973年NHK イタリア歌劇団公演『ファウスト』(演出:ジャンルイ・バロー)左よりマルタ:アンナ・ディ・スタジオ メフィストフェレス:ニコライ・ギャウロフ ファウスト:アルフレード・クラウス マルガレーテ:レナータ・スコット 提供:Nikolausarchiv

 そうした組み合わせによって、我々は実に種々様々のドン・ファンを見る事が出来る。殆どドン・ファン物というジャンルさえ想定できるくらいに。それはリベルタンという主題の含む振幅をほぼ完全に網羅しているからだ。情性が完全に麻痺したサイコパスから無闇と英雄的なロマン主義的悪漢まで、場当たり的に巧く立ち回って掴めるものは全部掴むオポチュニストから無軌道だがナイーヴな若者まで、それこそ、どんなドン・ファンでも、作り出す事は可能だ。

ジャコモ・カザノヴァ

 ジャコモ・カザノヴァ(1725-1798)の同郷の士で、ほぼ似たような世界に生きていた台本作者ロレンツォ・ダ・ポンテ(1749-1838)は、モーツァルトの音楽のために、素晴らしい台本を書いた。崇高と思えば狡猾、英雄的かと思えば卑劣極まりない、

2004年二期会公演
『ドン・ジョヴァンニ』
(演出:宮本亜門)
ドン・ジョヴァンニ:黒田博
ドンナ・エルヴィーラ:佐々木典子

同ドン・ジョヴァンニ:宮本益光

ある種矛盾の塊のようなドン・ジョヴァンニを中心に、これもまた様々な解釈が可能な登場人物が現れ、どう作り上げるか考えただけでわくわくするしかない場面を織りなして行く。そしてその台本に支えられて展開するモーツァルトの音楽がまた、実に、絶妙極まりないのだ。同じ〈シャンパンの歌〉が、夜の享楽への軽やかな期待とともに歌われるのも、暴力的と言う他ないあけすけさで歌われるのも、耳にした事がある筈だ。どちらも可能であり、どちらも素晴らしい瞬間を孕み、どちらも、それぞれのやり方で、それぞれの物語を作り出して行く。或いはマゼットを宥めるツェルリーナの可愛らしい歌声の背後で、オーケストラがあられもなく動揺する時、綺麗に手玉に取られている想い人の五年後、十年後を思って苦笑せずにいるのは至難の業だ。二人が舞台を退場する時、ツェルリーナが客席に向かって、まるでそこらで普通に出会う若い娘のようにVサインを出しても、私はあまり驚かない。オペラ以外のどんなジャンルで、こんな入り組んだ表現が可能だろう。
佐藤亜紀(さとう・あき)
1991年『バルタザールの遍歴』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞。'02年に長編『天使』を上梓し芸術選奨新人賞受賞。'07年に刊行した『ミノタウロス』では第29回吉川英治文学新人賞、2007年「本の雑誌が選ぶノンジャンルのベストテン」1位を受賞。他に『戦争の法』『鏡の影』『雲雀』などがある。


→オペラを楽しむTOP