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オペラを楽しむ

ペーター・コンヴィチュニー『サロメ』を語る
聞き手=森岡実穂 ドイツ語通訳=蔵原順子 協力・写真提供:びわ湖ホール

 ペーター・コンヴィチュニーが、この夏滋賀県びわ湖ホールで『蝶々夫人』ワークショップを行った。日本の若手歌手たちが 彼の指導でのびのび成長していくのを目の当たりにした1週間。来たる2月の『サロメ』での二期会歌手たちの成長にも大いに期待が高まるところであった。
 稽古も佳境の4日目の昼休みに彼の『サロメ』観を聞いてみた。

─(今回の『蝶々夫人』ワークショップを見て)たとえば現実社会で起こる親子・夫婦間での精神的・肉体的暴力や恋人同士の悲しい事件まで、またそれを反映する舞台や小説の数々と、昨今〈愛〉というものは、権力をふるうための便利な装置になってしまうことがあまりに多く、その存在を疑ってしまいがちです。しかしこうしてそれを信じられる機会がある、というところに芸術のよさがありますね。

 それがまさに私の核としているテーマなのです。それはワーグナーでも、ヴェルディでも、すべてのオペラにとってそうなのではないかと思えてきました。
 人には、「ひとりでいたくない」「誰かと一緒にいたい」という欲求、すなわち〈愛〉があります。しかしこれが、いろいろなイデオロギー、つまり宗教や伝統などに邪魔され阻害されてしまう。これが、さまざまなオペラの中に共通して存在するひとつの構造だと思います。それは異文化間でも起きることだけれど、同じ文化内でも十分起こりうることです。たとえば、お金持ちの女性と貧しい男性の間には愛をはぐくむチャンスはないというケースのように。こうした問題は、もはや克服されたかのようにみえますが、じつは今日でもその状況はあまり変わっていません。オペラというのは、私たちの中に、こういうことが阻まれてはいけない、という気持ちを呼び覚ましてくれるものではないでしょうか。

─『サロメ』の場合にも、それはあてはまるのですね。

 サロメの置かれた状況、彼女を邪魔しているイデオロギーと、彼女の苦悩や葛藤は深くかかわっています。彼女の育った環境を考えてみてください。ヘロデ王はローマの協力者として国を支配していて、国も国民も、宮廷という生活の場も、すべてがもう―もちろん性的な意味も含め―完全に腐敗しつつあるわけです。そんなひどい環境におかれた子供というのは、どういう気持ちを持って、どういうふうに成長していくことになるでしょう。彼女の子供時代とはそういうものだったのです。
 ここでサロメが学べずにいるものがひとつありました、それが〈愛〉です。なぜなら、誰もそれを彼女に教えてはくれなかったし、教えることもできなかったから。けれど彼女は、それをどうしても知りたい。彼女は本能的に、この退廃の地の外からやってきたヨカナーンならば絶対にそれを知っているに違いないと考えた。だからこそサロメは、彼のことをあれほどまでに欲しいと望むのです。
 しかし彼は彼で、別のイデオロギーに目をくらまされている。それが悲劇的な結末を生むのです。

─ヨカナーンの人物像は?

 ヨカナーンは、西洋文明の申し子のような男です。西洋の哲学、宗教などのイデオロギーによって彼の思考は成立しています。つまり彼は、女や肉体というものを敵視しているのです。『パルジファル』の聖杯の騎士たちの中に混じっていてもおかしくないような人物だと思います。そして聖杯の騎士と同様に、心の奥底では、彼もやはり女性に対する欲求というものを持っています。
逆に言えば、その欲求を押さえつけるほどの力、本当に暴力的なまでの力が、彼を支配するイデオロギーの側にはあるということです。
 作品の終幕部分に、サロメがヨカナーン(の首)に向かって「もしあなたが私を見てくれたなら、あなたも私を愛しただろうに」「愛の神秘というものは、死の神秘よりもはるかに大きい」という台詞があります。〈七つのヴェールの踊り〉での脱衣などに目がいくあまり、サロメという女性は下品な目で見られがちですが、このセリフによって、彼女はけっしてあばずれ女ではないことがわかります。
 サロメの中にはあるひとつのユートピア、〈愛〉に対するあこがれがあります。彼女は、「愛の神秘というものは、死の神秘よりもはるかに大きい」ということを知っている。年長の経験豊富な男性と比べれば、知識の程度やあり方には違いがあるかもしれないけれど、とにかく彼女はそのことを確かに知っている。その意味で、サロメというのは非常に重要な、大いなる存在であって、もしかしたら私たちを救ってくれるほどの存在なのかもしれません。

─それは、あなたの『魔笛』のパミーナのように、何かオルタナティヴな生き方を示してくれるような強い思いを持った存在ということでしょうか?

 蝶々さんもそうですよね。彼女は決して迎合しない。彼女はユートピア的な愛の存在が許されないこの世界と妥協するよりはと死を選ぶのです。

─今回の『サロメ』では、核シェルターを舞台にしているそうですね。日本では、多くの人が原爆のもたらす結果を知っているがゆえに、この舞台装置を通して、より強く、刹那的な空しさを感じるのではないでしょうか。

 特に「核」シェルターと思っていたわけではないのですが、日本ではより先鋭化されたイメージを生み出せるならば望ましいことですね。私たちが生きているこの世界のシステムというものがいかに腐敗し、終りに近づいているか、ということをより強く表してくれると思います。

─今回の来日で、8月8日に広島でも講演があるとうかがいました。

 1945年の8月6日、原爆が落とされたあの日というのは、私たち人間の5000年の文明の新しい一章の始まりだと思っています。たぶん、この文明の終焉にむかっての第一歩が、そこから始まっているのではないでしょうか。今回のワークショップでは、偶然ですけれど、ちょうどその日が発表会の日となったことをうれしく思っています。

(2010年8月3日、びわ湖ホール)

PETER KONWITSCHNY(ペーター・コンヴィチュニー)
現代を代表する世界最高のオペラ演出家の一人。1945年フランクフルト・アム・マイン生まれ。2歳のときからオペラに親しむ。フランツ・コンヴィチュニー(1901—62)を父に持つ。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督に父が就任(194962)したため旧東ドイツに移住。音楽的素養の多くを父から受ける。(旧東)ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学で演出を学ぶ。
手がける全作品が世界に大きな話題を提供している。オペラ専門誌「オーパーンヴェルト」にて95年以降5度「年間最優秀オペラ演出家」に選出される。2005年二期会『皇帝ティトの慈悲』は「音楽の友」誌選定日本におけるクラシック界第5位に(邦人公演最高位)ランクされるなど大絶賛を得、08年同『エフゲニー・オネーギン』でも社会性を持たせる作品表現が大きな支持を得た。