TOKYO niki kai OPERA FOUNDATION NEW STYLE OPERA MAGAZINE

ENGLISH

オペラを楽しむ

ベルリオーズの『ファウストの劫罰』

文・井上さつき



19
世紀ロマン派の作曲家にとって、ドイツの文豪ゲーテの存在は非常に大きかった。フランスの作曲家エクトール・ベルリオーズ(1803-69)も例外ではない。ゲーテの『ファウスト』は彼の愛読書で、『ファウスト』の第1部を題材として、ベルリオーズは1846年に劇的物語《ファウストの劫罰》を完成させた。この作品は、もともとは演奏会形式で書かれたものだが、オペラ仕立てで上演されることも多く、ベルリオーズの代表作として高い評価を得ている。
 《ファウストの劫罰》は悪魔メフィストフェレスとの契約によって青年に戻ったファウスト博士とマルグリートとの悲劇的な愛の物語である。この作品を作曲するに当たって、ベルリオーズは、自分が若いときに作曲した《ファウストからの8つの情景》を下敷きにした。《ファウストからの8つの情景》作曲のきっかけとなったのは、1827年11月に出版されたジェラール・ド・ネルヴァルによるゲーテの『ファウスト』の仏語訳であった。
 ベルリオーズは『回想録』のなかで、ネルヴァル訳の『ファウスト』との出会いを、次のように熱く語っている。
 「このすばらしい書物はたちまち私を幻惑した。私は、もうこれを手離すことができなくなった。食卓でも、劇場内でも、街路でも、ところかまわず読み耽った(丹治恒次郎訳)」。
 実はネルヴァルが翻訳する前にも、『ファウスト』の仏語訳はフランスで出版されていたのだが、ベルリオーズの想像力を掻き立てたのは、すぐれたロマン派詩人であったネルヴァルによる翻訳だった。ネルヴァルの訳は立派なもので、当のゲーテも賞賛を惜しまなかったという。ネルヴァルの訳は散文訳だが、ところどころ歌や頌歌などが韻文に訳されており、ベルリオーズはそれに音楽をつけようと思い立ったのである。《幻想交響曲》を手がける以前、パリ音楽院作曲科在学中のことだった。
 こうして、1828年から29年にかけて、ベルリオーズは《ファウストからの8つの情景》を作曲した。作曲を終えたベルリオーズは借金して自費で《8つの情景》を印刷し、1829年4月、モーリス・シュレザンジェ(シュレジンガー)社から「作品1」として刊行した。
 ベルリオーズは丁重なフランス語の手紙と共に、楽譜を2部、原作者ゲーテのもとに送った。ゲーテはまだ健在だったのである。
 「あなたがお書きになったすばらしい詩に触発されて作曲された、あらゆるジャンルの作品を多数お受け取りになられていることは承知しておりますが…」とベルリオーズはゲーテに宛てた手紙に記しているが、実際、当時の作曲家たちは競ってゲーテの詩に曲をつけ、ゲーテに認められようとした。ゲーテはわかりやすい言葉を駆使し、深い情感や思想を平明率直にあらわすことができ、ゲーテのおかげでドイツの文学はこれまでにない豊かな表現を得られるようになった。自作をゲーテに送ったり、直接会いにいったりする作曲家の数は数えきれないほどだった。作曲家だけではない。演奏家もゲーテに認めてもらおうと、競って彼のもとを訪れた。後にシューマンと結婚するクララ・ヴィークも、少女時代にゲーテのもとを訪れて、ピアノの腕前を披露した。ゲーテとの親しい間柄だったツェルターは作曲の弟子のメンデルスゾーンを連れていき、メンデルスゾーンはゲーテのお気に入りとなった。
 したがって、ベルリオーズがパリからゲーテのもとに自作を送ったことも、とりたてて珍しいことではなかった。しかしその後、待てど暮らせど、ゲーテからは何の音沙汰もなかった。いったい、ベルリオーズがパリから送ったものはゲーテのもとにきちんと届いたのだろうか。

 実際には、ゲーテはちゃんとベルリオーズの楽譜と手紙を受け取って、目を通していた。ゲーテと親しかったエッカーマンによれば、フランスから届いたベルリオーズの手紙と楽譜を受け取ったゲーテは、ベルリオーズの文章の美しさと、見事な楽譜の印刷に心を動かされ、音楽上の相談役だったカール・フリードリヒ・ツェルターに楽譜を送り、意見を求めたという。ゲーテはひっきりなしに自分の元に送られてくる音楽作品をツェルターやライヒャルトなどの専門家のもとに送り、判断してもらっていたのである。
 しかし、保守的なツェルターが下した判断はきわめて否定的だった。ツェルターはゲーテに宛てた手紙で、ベルリオーズの音楽について口をきわめてののしっている。結局、ゲーテは、ベルリオーズに返事を送ることなく、1832年83歳の生涯を閉じた。
 ゲーテから返事をもらえなかったベルリオーズは、楽譜出版後、出来栄えがよくないという理由で楽譜を回収してしまった。しかし、ベルリオーズは《8つの情景》をそのままお蔵入りにしてしまったわけではない。《8つの情景》の各曲は、その後、1846年に完成した劇的物語《ファウストの劫罰》のなかで素材としてはめこまれ、それぞれが所を得て、みごとに蘇ることになった。
 若き日のベルリオーズは『ファウスト』を自身の愛読書にしただけでなく、他の作曲家にも薦めた。ベルリオーズに感化されたのが、20歳前のフランツ・リストである。彼はベルリオーズを通じて、ネルヴァル訳の仏語版『ファウスト』にまず親しんだ。以来、リストにとって『ファウスト』は、カトリックの聖務日課書やダンテの『神曲』と共に、座右の書となった。ベルリオーズは劇的物語《ファウストの劫罰》が完成すると、それをリストに献呈し、刺激を受けたリストは《ファウスト交響曲》を作曲し、ベルリオーズにお返しに献呈したのである(1854-57年作曲、61年改訂)。
 劇的物語《ファウストの劫罰》は4部からなり、独唱、合唱、管弦楽のために書かれている。ベルリオーズはこの作品を1845年から翌年にかけて行ったハンガリー、ボヘミア、シレジアなどへの演奏旅行の途中で書き進めた。
 彼はこの作品を1846年12月6日にパリのオペラ=コミック座で初演し、その2週間後に再演を行ったが、客席は半分も埋まらず、完全な失敗に終わった。「音楽家としての私の生涯を通じて、このときの、予期していなかった聴衆の無関心ほど私の心を深く傷つけたものはなかった」とベルリオーズは回想録に記している。パリの聴衆に対して不信感を抱いたベルリオーズは、以後、存命中はフランス国外でのみ、この作品の全曲演奏を行った。皮肉なことに、没後、フランスで高まったベルリオーズ再評価の機運は、《ファウストの劫罰》の100回を超える演奏がきっかけだった。
 この作品はちょうどオペラと交響曲との間に位置するジャンルのものであるが、今回の二期会公演のように、オペラ仕立てでも上演される。実際にこの作品をオペラ化する話は初演の翌年にもちあがっていたのだが、結局、計画倒れに終わってしまったのである。もし実行されていれば、話の展開も含め、ベルリオーズはかなり手を入れたと思われるが、オペラとしても、そのままで十分に楽しめる。
 ベルリオーズは《ファウストの劫罰》において、ゲーテの原作に自由なアプローチをとっている。有名な場面や登場人物が削られる一方で、たとえば、第1幕ではハンガリーの場面が挿入されているし、ゲーテの原作では、第2部でファウストが救済されるのに対して、ベルリオーズはファウストを地獄に落としている。そして、作品はファウストの地獄落ちとマルグリートの昇天で幕となる。この「地獄落ち」といい、原作にはまったく出てこないハンガリーの場面を入れてしまうという大胆さはベルリオーズならではのもの。彼は演奏旅行中、ハンガリーのペストで大成功を収めたハンガリーの国民歌の管弦楽編曲「ハンガリー行進曲(ラコッツィ・マーチ)」を《ファウストの劫罰》のなかに組み入れたいがために、無理に主人公をハンガリーに連れて行ってしまったのである。ベルリオーズは楽譜の序文で「音楽的な必要性が少しでもあれば、どこにでも主人公を連れて行っただろう」と率直に述べている。この自由な創造性こそ、ベルリオーズの真骨頂なのである。
いのうえ さつき
専門は近代フランス音楽史、愛知県立芸術大学教授。著書に『音楽を展示する─パリ万博1850-1900』(2009年、法政大学出版局)、訳書にアービー・オレンシュタイン『ラヴェル─生涯と作品』(2006年、音楽之友社)など。近く『フランス音楽史』(今谷和徳氏と共著)を刊行する予定(春秋社)。