TOKYO niki kai OPERA FOUNDATION NEW STYLE OPERA MAGAZINE

ENGLISH

オペラを楽しむ

オペラって…
「オペラが映画になるとき」
天野祐吉


 オペラを映画化した作品でぼくがいちばん好きなのは、ベルイマンの「魔笛」である。
 そのツクリは、舌をまくほどみごとだが、とりわけ序曲の部分の映像がすごい。幕のあくのを待つ観客席の人たちの表情を、映画は次々に映し出す。若者がいる。老人がいる。少女がいる。白人がいる。黒人がいる。アジア系の人がいる。顔はいろいろだが、その人たちの表情はみな、これから始まる夢の世界へ、次第にひきこまれていくような表情だ。
 あ、そうか。オペラの序曲というのは、現実から虚構の世界へ渡っていくための「橋」だったのかと、この映画を見たとき、ぼくははじめて気がついた。あの序曲がなしに、とつぜん幕が開いて「魔笛」の荒唐無稽な世界が始まったら、こっちはとてもじゃないがついていけないだろう。
 「魔笛」の世界を現代におきかえ、第一次大戦風の戦争シーンから始めたケネス・ブラナーの才気も好きだが、やはりベルイマンには及ばない。ベルイマンの「魔笛」が、あくまでモーツァルトに沿いながらぼくらを「魔笛」の世界に連れていくのにくらべると、ブラナーはモーツァルトの音楽を借りて、ブラナー流の「もうひとつの虚構」をつくっているように思うのだ。
 その違いは、もちろん二人のすぐれた映画人の資質の違いでもあるけれど、ブラナーの「魔笛」が「映画作品」であるのに対して、ベルイマンのものは「テレビ用作品」だったということもあるような気がする。
 映画が虚構のメディアであるのに対して、テレビというメディアは、本質的に虚構とソリが合わない。テレビと映画は、一見親戚関係にあるように見えて、実は赤の他人なのだ。
 暗い映画館の中と違って、テレビのある茶の間は、ふだんの空気が流れている。そんな現実の空間に虚構の世界を持ち込むには、ベルイマンがいくつも用意したような「虚と実のかけ橋」が必要なのだと思う。だから、オペラを見なれた人にはブラナーの「魔笛」も面白いだろうが、ぼくのようなオペラ初心者には、ベルイマンの「親切」がうれしい。
 そういえば、ベルイマンの「魔笛」の中でじっと序曲に聴き入っている客席の中に、ぼくもまじっていたような気がしてきた。

天野祐吉(あまの・ゆうきち)
◎コラムニスト・童話作家。1933年東京生まれ。創元社、博報堂などを経て独立、1979年に「広告批評」を創刊する。同誌の編集長、発行人を経て、現在は主にマスコミを対象とした評論やコラムを執筆、またテレビのコメンテーターとしても発言している。主な著書に、「広告みたいな話」「嘘八百」「天野祐吉のCM天気図」「ゴクラクトンボ」「見える見える」「おかしみの社会学」「嘘ばっかし」「広告論講義」「天野祐吉のことばの原っぱ」「私説広告五千年史」など多数。絵本に、「くじらのだいすけ」「ぬくぬく」「絵くんとことばくん」「のぞく」などがある。