TOKYO niki kai OPERA FOUNDATION NEW STYLE OPERA MAGAZINE

ENGLISH

オペラを楽しむ

コンヴィチュニー畢生の大傑作、『オネーギン』!

文・山崎睦

タチアーナに同化し、オネーギンの嘆きを我がものと
している自分に気付くとき、そこはもう“天才”(“悪魔”かも)
コンヴィチュニーの世界である。



2
005年9月にブラティスラヴァのスロヴァキア国立劇場で見た『エフゲニー・オネーギン』の衝撃を、いまも鮮明に思い出す。
ペーター・コンヴィチュニーは同演出をすでに1995年、ライプツィッヒにおいてプレミエで出しており、以後そのモデルに基づいて98年にバルセローナ、99年デン・ハーグでも上演を重ねてきた。その際に彼が言うところのリメイクとは、プロダクションの移行上演、ないしは再演・再上演とは大きく異なっていることに留意したい。長時間劇場に張り付いて入念なリハーサルを繰り返すのは当然ながら、劇場ごとに異なる舞台条件、毎回変わる出演歌手、それらすべてを統括して最良の上演に持っていくための苦労・努力をコンヴィチュニーは惜しまない。リメイクと但し書きが付いていようとも、観客の目に映る舞台はいま出来上がったばかりの、切れば血が吹き出すような生きた劇場として迫って来るところがコンヴィチュニーの真骨頂に違いない。基本的なコンセプトはプレミエからそれほど離れるわけではないにしても、ディテールが千差万別であって、結果的にはほとんどプレミエと言っても過言ではないほどの圧倒的なパワーを発揮するのである。
第三幕、舞台下手(しもて)のプロセニアムロージェから舞踏会の客に挨拶するグレーミン伯爵、脇にタチアーナ
カーテンコール
そのような意味で、ブラティスラヴァの『オネーギン』も、すでに10年を経た演出とは思えないほど真に迫った舞台であり、観客の誰もが登場人物に乗り移ったかのように興奮が最高度に達して、これこそコンヴィチュニーなる所以(ゆえん)であろう。
『オネーギン』を新制作した1995年当時のコンヴィチュニーの身辺を眺めてみると、その前年にグラーツで傑作『アイーダ』を制作しており、この直後から中心地への快進撃がはじまっていることがわかる。両者はいわば世界に雄飛する直前の、彼にとっても記念碑的な作品という意味があるだろう。
95年のドレスデン『平和の日』(R・シュトラウス)、ミュンヘンの『パルジファル』、96年ドレスデンの『ナブッコ』、97年ライプツィッヒでイエルク・ヘルヘット作曲の『廃物』初演、ドレスデンの『タンホイザー』、98年にはハンブルクでコンヴィチュニーの代表作ともされる『ローエングリン』、ミュンヘンの『トリスタンとイゾルデ』、ハンブルクで『ヴォツェック』と、いずれもハイレヴェルのプロダクションを立て続けに出していることに目を見張らされる。99年にエッセンで制作されたR・シュトラウスの『ダフネ』は2007年11月にアムステルダムで再演されたばかり。以後、シュトゥットガルトの『神々の黄昏』、ベルリン・ドイツオペラでノーノ作曲の『イントレランツァ』、グラーツで『ファルスタッフ』、ハンブルクの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、ベルリン・コーミッシェオーパーで『ドン・ジョヴァンニ』、ハノーファーでノーノ『偉大な太陽の下に』、シュトゥットガルトで『魔笛』、モスクワで『さまよえるオランダ人』と問題作を輩出している。
フィナーレ、お互いに思いを断ち切れないタチアーナとオネーギン
急速に評価が上昇し、巨匠の域に達したコンヴィチュニーの業績を広く知らしめるビッグ・イヴェントが2005年4月から6月にかけて、ハンブルク州立歌劇場で開催された。8シーズンに渡ってGMD(音楽総監督)として同歌劇場に多大な貢献を果たした指揮者、インゴ・メッツマッハーの辞任に際して、彼が在任中に制作した代表作10本を連続上演したのである。そのうち『ローエングリン』、『ドン・カルロ』、『ヴォツェック』、『ルル』等の7本がコンヴィチュニー作品で占められ、あたかもコンヴィチュニー・フェスティヴァルの様相を呈したのは特筆すべきである。一人の演出家に対する顕彰と言う意味では、過去にベルリン州立歌劇場(ウンター・デン・リンデン)でハリー・クプファーのワーグナー10作品連続上演というモニュメンタルな記録があるが、ハンブルクでのコンヴィチュニーに対する評価と待遇も、これまた空前絶後と言うべきであろう。
第一幕、マイバウム(5月の木)を立てて春を祝う群衆
ブラティスラヴァの『オネーギン』にテーマを戻そう。ウィーンから車で東方向に1時間ほどの距離にあるスロヴァキアの首都は歴史的にもオペラの盛んな土地柄で、多くの名歌手を供給してきたことで知られている。近年に限ってもルチア・ポップ、エディタ・グルベローヴァ、ガブリエーラ・ベニャチコヴァ、リュバ・オルゴナショヴァ、ルビツァ・ヴァルギツォヴァ、それにチェコのブルーノ生まれながらブラティスラヴァ音楽院出身のマグダレーナ・コジェナーが挙げられるし、ペテル・ドヴォルスキの名前も忘れるわけにはいかない。スロヴァキア国立劇場は、昨年春ドナウ川沿いに落成した新劇場と従来よりの旧劇場を使ってオペラ・バレエのほかに演劇も上演し、ウィーンからの観客も多い。ちなみに昨年10月には、92年グラーツで制作された『蝶々夫人』を取り上げている。
2005年、コンヴィチュニーの『オネーギン』が新制作される前年に同劇場を訪れた際、翌シーズンに『オネーギン』を取り上げると聞いて驚いた。次にコンヴィチュニーに会った機会に、「座席800ぐらいの小さい劇場だけど」と振ってみたら、「はじめての劇場だが、小さいことはぜんぜん問題ではない。若い頃ハレなどで仕事をしていた時代の経験を生かすことが出来るから、むしろ楽しみにしている」とポジティヴな反応が返ってきた。事実、彼自身も会心のリハーサルが出来たことを後に語っていて、とにかく初日の完成度の高さは驚嘆に値する出来栄えであった。
コンヴィチュニーの手法のひとつとして、感極まった登場人物が舞台の枠からはみ出してしまうことがある。『オネーギン』ではオーケストラ・ピットの周りに回廊を作り、歌手がぐるりと一回りできるようになっているのが特徴である。ルカ・ロンコーニによるロッシーニ『ランスへの旅』でもこのような回廊を使っているが、コンヴィチュニーの場合は単に舞台の拡張という以上に、登場人物の心理状態を表現する手段として、これ以上はないほど効果的に考え抜かれている。
まずタチアーナの手紙のシーンで、手紙を書きながら気持ちが止めなく高揚した彼女が、ついに本舞台から回廊に出て来る。つまり、彼女は非日常の世界に踏み込んだわけであり、綿々と心情を訴える彼女の立ち位置は指揮者の真後ろ、平土間観客席のほぼ中央になる。一種のトランス状態に陥って狂乱せんばかりのタチアーナをすぐ目の当たりにした観客から、ここで異様な反応が起こった。ほとんど全員がタチアーナに同化し、感情移入して泣き出したのである。これだけ多数の人間を、ごく短時間のうちにタチアーナ化させてしまうコンヴィチュニーは悪魔に違いない、と誰しもが思ったことであろう。たしかにタチアーナに扮したナターリア・ウシュコヴァの体当たり的演技と歌唱がなかったら、コンヴィチュニーもこれだけ成功することは出来なかったに違いないから、ここは演出家とソプラノ歌手による素晴らしい共同作業を賞賛すべきである。
決闘シーンから引き続き第三幕に移行、ポロネーズに乗ってレンスキーの死体と踊るオネーギン
回廊は最終シーン、凄絶なるタチアーナの復讐のシーンでも活用される。本舞台ドロップカーテン前に立つタチアーナに向かってオネーギンが指揮者の後ろから、オーケストラを真ん中に挟んで切々と思いを訴えるシーンがリアルに生きてくるのである。舞台上の歌手と同じように肩で息をしている観客。
それとコンヴィチュニー自身も自慢する見せどころ、オネーギンによるダンス・マカーブル(死の舞踏)で、あの豪壮なポロネーズに乗って、自分が射殺した親友、レンスキーの死体を抱いて踊る放心した姿は、主人公の引き裂かれた心を見事に表している。
チェーホフ風の室内劇的な親密さ、ロシア社会を写す街頭風景、ウオトカを切らせない老婆たち、と様々な見所満載のコンヴィチュニー・ワールド。たしかに作品自体が彼の演出家としての資質に合っていると考えられ、凝集力の強さ、ドラマへの踏み込み、という点で数多い彼の労作のなかでも上位にランクされるだろう。
プレミエの客席に現れたウィーン国立歌劇場のイオアン・ホーレンダー監督から、幕が降りるや否やウィーンでの上演の可能性を打診された、と演出家から聞いた。(東京のオペラの森とウィーンの共同制作による『オネーギン』が、ここに関わって来る)。いま紆余曲折を経て二期会が『オネーギン』上演に漕ぎ着けたことは、なによりも素晴らしい。

プーシキンとチャイコフスキーの『オネーギン』から、これだけのステージを創造したコンヴィチュニー、またまた大きな話題を巻き起こすに違いない!

山崎睦(やまざき・むつ)
◎音楽ジャーナリスト・評論家、ウィーン在住。1970年代よりウィーンを中心とするヨーロッパの音楽関連記事を「音楽の友」、「レコード芸術」、「モストリー・クラシック」等の月刊誌、「朝日新聞」、「読売新聞」等日刊紙に寄稿。著書、訳書あり。