TOKYO niki kai OPERA FOUNDATION NEW STYLE OPERA MAGAZINE

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オペラを楽しむ

「気紛れ」としてしか
語れない時代のオペラ
長木誠司


とばと音楽の優劣を競うという発想は、きわめてヨーロッパ的なものである。それはヘレニズムとヘブライズムが交錯し、融合した文化ならではのものだからである。遠く古代ギリシャの昔、ことばと音楽は未分化の状態で仲良く暮らしていた。歌うように語り、語るように歌うことは、ニーチェ流に解釈するならば、「音楽の精神からの悲劇の誕生」をもたらした。このギリシャ悲劇を復興しようという、大それたルネッサンス的発想から、ヨーロッパのオペラ文化は誕生し、バロックの華麗な音楽環境を創り上げた。だから、そもそもオペラの根には、ことばと音楽が理想的に融合したアルカディア世界が夢見られていたと言ってもよいだろう。
 一方、ユダヤ教は「はじめにことばありき」であった。西洋的な「ロゴス中心主義」の根元にあるこの価値観は、神の被造物として、律法に従った生活を行うブレのない人間像を創りだしていた。それは近代に到る過程で神の手を離れ、人間中心主義へと移行し、そこで人間はデカルト的なコギトとして、ブレも疑えもしない究極の審級となってゆく。しかしながら、それはあくまでも理念上のお話だ。原罪を背負う実際の人間は、絶えず罪を繰り返す意識に苛まれ、自らを律し得ない自分、あるいは自己のなかの〈他者〉を見つめ続けねばならず、同時にそれを告白し懺悔するという方途を許してこざるを得なかった。そうした〈他者〉は、常に悪魔の囁きとして人間のあるべき姿を掘り崩そうとするが、またそれに触れることは、逆に神への想いを深める役割をも果たすのであった。教父哲学のアウグスティヌスや啓蒙期のジャン=ジャック・ルソーのような気高き人間の告白は、ひとびとを安心させる。
 アウグスティヌスの『告白』のなかに、音楽という魔物による誘惑について書かれていることはよく知られた事実だろう。聖書のことばが唱えられるとき、それに旋律が付いていると、どうしても神のことばそのものよりも、音楽の方に気が向いてしまい、感情に流されて罪を犯すという下りである。いわばこれが、西洋におけることばと音楽の優劣をめぐる議論のプロトタイプである。ヘブライズムを継承するキリスト教において、音楽はその本質からしてそもそも悪なのである。しかしながら、教会音楽の歴史は、常にこの悪を飼い慣らし馴化させる歴史と言ってよい。中世には、教会内での華麗な音楽に対する危惧がたびたび叫ばれ、禁忌や制限の取り決めが何度も発令されたにもかかわらず、少なくともカトリックや、宗教改革後のプロテスタントにおいて教会音楽がなくなった試しはない。
 こういうわけだから、ことばと音楽が仲良く手を携えて、ということは、名目上はギリシャ復興としてのオペラにおいてもうまくいくはずがなかった。次第に歌詞の旋律性を増していったイタリア・オペラと、和声重視のラモーによるフランス・オペラとの間の優劣を競う〈ブフォン論争〉、そして華美な装飾的旋律を施されてゆくピッチンニ流のイタリア・オペラと、もっとことばの内実と音楽との関係を密にして、ドラマ性を揚げようとするグルック流のオペラとの間に生じた〈グルック/ピッチンニ論争〉、ともに18世紀半ば、オペラが多彩に華開いていた時代の現象である。
 同じような二項対立は、グルックを範にしたヴァーグナーによって、華美な舞台を誇るマイアベーア的なグラントペラへの反撥として、19世紀なかばにも生じている。こうした競い合いは、時代と状況を変えながらも絶えず繰り返されてきたのである。ということは、結局のところ決着が付かない問題ということなのだ。その理由は、それが美学的な党派性の問題にすぎないから─つまりは、どちらに肩入れするか─なのであるが、実のところ、こうした党派性はけっして美学として単体ではやってこないのである。美的価値観は、大方の期待とは裏腹に、残念ながら常に政治を伴って現れるという歴史を持っているからだ。王党派と反王党派の間の競い合いでもあったブフォン論争に代表されるように、いずれの時代の論争も、ことはけっして美学の範疇に収まっているものではない。それは常にポリティカルな背景を持つ問題なのだ。ヴァーグナーの場合も、ユダヤ人マイアベーアへの、いわれのある反感があった。

 シュトラウスが《カプリッチョ》で描いたことばと音楽の間の論戦は、直接的には、歌詞にも登場するグルックとピッチンニの歴史的論争を背景にし、また《ナクソス島のアリアドネ》同様に、サリエーリのオペラ《まずは音楽、それからことば》にいくつかのプロットを負っている。しかし、ここに描かれたことばと音楽の、あまりにも古典的な二項対立は、すでにそうした古典的世界、すなわち「昨日の世界」が終焉を迎えようとしている最後の灯火であるかのようだ。終わろうとしているのはほかでもない、オペラの歴史そのものであり、またそれを支えてきた社会と文化─あるいは国家と呼んでもよい─そのものである。1942年という荒々しい時代に、なんとまあ呑気な題材を、それもまた呑気なオペラなどというジャンルで、という見方が一方にあろう。しかしながら、ここではオペラそのものが古典的論争を含め、あるいは実際にパロディとして演じられるイタリア・オペラ的な場面もろとも、全面的にパロディ化されているのである。そして、ではどんなオペラを創ろうか、とみなが問いかける場面になると伯爵の一言で、その日の論争をオペラにしようという結論になってしまう。ここでは、オペラのストーリーなんていつも同じようなものの繰り返しさ、という月並みな皮肉を越えて、すでにオペラ自体が自己言及的な繰り返ししかできなくなっているという無残な姿を晒すことになっている。

 《カプリッチョ》は、空虚に近いまでに美しい音楽や聴き手をおちょくったような内容とは裏腹に、実に残酷なオペラである。それは、ひとつの政治的・文化的な黄昏の時代にあって、その黄昏自体を体現するオペラなのである。ちょうどシュトラウスが《ばらの騎士》で、ハプスブルクという「昨日の世界」の黄昏を甘酸っぱく描いたように、ここで彼は自分自身の帰属する世界の黄昏を、自分を塗り込みながら描いてしまっているのである。しかしながら、この作曲家がそれでも幸せな晩年を生きていたと思われるのは、ことばと音楽という古典的なテーマを扱う「ことばと音楽」自体の有効性を、まだ彼がリニアな物語展開を伴うオペラとして実現できるという最終的な信憑を捨て切れていないことによっている。それを捨て去っていたならば、《カプリッチョ》というオペラ自体が生まれなかったはずだから(「おお、ことばよ、我に欠けたるは汝なり」という、歌にならないシュプレヒシュティンメの台詞を最後に、リニアな物語を破綻させてしまったシェーンベルクは、こうした信憑をもはや持っていなかったろう)。そして、そうした世界の崩壊後に、そうした信憑すらも失った末に書かれた、例えばマウリシオ・カーゲルの《国立劇場》のような作品の、ほんの一歩手前にまでシュトラウスは来ていたことになろう。



上:東京オペラ・プロデュース第70回定期公演「カプリッチォ」 2004年3月19日・20日 於:なかのZERO大ホール、
右:クレメンス・クラウスが音楽総監督を務めた現在のバイエルン州立歌劇場客席(撮影:N・Y)

長木誠司 (ちょうき・せいじ) ◎昭和33年福岡生まれ。現代の音楽、両大戦間の日本の洋楽、および18〜21世紀のオペラを研究。東邦音楽大学助教授、東京大学准教授を経て、現在東京大学教授(表象文化論)、音楽評論家。著書に『前衛音楽の漂流者たち〜もう一つの音楽的近代』、『フェッルッチョ・ブゾーニ〜オペラの未来』、『日本戦後音楽史上・下』(共著)など。