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オペラを楽しむ

鵜山仁(うやま・ひとし)

劇場の中の劇場
『ナクソス島のアリアドネ』演出家・鵜山仁氏に聞く


2008年6月、二期会で上演される『ナクソス島のアリアドネ』。
その演出家である鵜山仁氏にオペラ、
そして『ナクソス島のアリアドネ』の魅力を伺った。
取材&文・山崎浩太郎 写真・広瀬克昭


─以前からオペラには関心を持たれていたのでしょうか。
 実は初めてプロの演出家としてお金をもらったのは、芝居ではなくオペラなんですよ。池辺晋一郎さん作曲の『死神』で、一九八一年だったかな。木村光一さんにご紹介いただいて担当したのですが、そのときに木村さんから、オペラというのは何かと大変だよと言い含められました。
 それ以前、学生時代には二期会で言えば『ラインの黄金』や『カテリーナ・イズマイロヴァ』など、オペラを時々観に行っていました。芝居の勉強を始めた時期には助演としてNHKイタリア・オペラの『シモン・ボッカネグラ』の舞台に出たりもしたんですよ。それからしばらく縁がなくて、『死神』の演出の依頼があった。
 その後も、日本オペラ協会や東京室内歌劇場、モーツァルト劇場など、何度かオペラ演出の機会はありました。ただしそれらはグランド・オペラじゃない、つまり歌手がはるか昔から音楽をすっかり憶えてしまっているようなものじゃない。だから稽古で、用意ドンという感じで、一緒に始められるものが多かったんです。ところが二〇〇六年に二期会で『ラ・ボエーム』をやらせていただいて、このときは何しろ、僕なんかよりも、出演者たちの方がずっと長く作品に親しんでいるという状況でしたからね。
─オペラならではのことなのでしょうか。
 芝居とオペラとでは、稽古のスタートが違うんですよ。オペラは暗譜してくるのが当然で始まる。芝居の場合はそれ以前の、どういう回路でセリフを憶えようかというところから始まる。さらには座組みとか、稽古場でのその日の体調とかでもどんどん演出が変わる。オペラはそうはいかない。先日新国立劇場で『カルメン』を演出しましたが、半年とか一年前とかにプレゼンテーションというものがあって、そこでともかく演出のコンセプトというのを説明しなくちゃいけない。芝居の場合だといわゆる「コンセプト」だって、現場と共に紆余曲折して、最後に舞台の上で実現されるものなんです。このズレと、どう折り合いをつけるかが難しい。
 あと、オペラにはライヴ・パフォーマンスとしての難しさもありますね。一回一回がある意味で新鮮。今日はどれくらい飛べるかな、みたいなスポーツ的快感がかなりある。芝居はある意味で計算がきくんです。ところがオペラでは、よーしと舞台に出ていったら思っていたような声が出なかったみたいなことが起こり得る。
 すごく危険なジャンルですよね。そして観客はその面白さに賭けてお金を払っている。そういう偶然性への賭けの部分がどうしても残っていくので、演出の方はビジュアルというかスタイルというか、一応この枠の中でやりますよという枠組としてはあるのだけれど、ライヴ・パフォーマンスのただ中には微妙に入って行きづらい。
 それにオペラの場合、芝居はこうだけれども音楽はそれを要求していないとか、逆に音楽はこう要求しているとか。これはむしろ解釈の問題なので必ずしも対立する必要はないのですが、音楽的要求とは何なのかというのは考えてみると面白い。メジャーなメロディを歌っているけれども伴奏はマイナー、というのが音楽的要求だったりもすれば、単にいい声がどれだけ出るかというのが「音楽的」の根拠だったりもする。譜面の構造的なものと、歌い手の都合とか色々あって、これも面白かったですね。
 さらに指揮者が毎回稽古場にいるとなると、これは主演女優が二人いるみたいなものです。しかも作曲家の代理人みたいな顔していらっしゃる。原作者と主演女優が二人なんて現場は芝居だったら、とっくに逃げ出してますよ(笑)。でも、自分の価値観とか目線とはまるで違う人がいることで、自分を更新していけるという点では、皮肉ではなしに、とても有意義な体験です。
─『ナクソス島のアリアドネ』というオペラは、まさにそうした舞台裏も描いた、メタ・オペラみたいな作品ですね。
 アリアドネとツェルビネッタのどちらに感情移入するか。どちらにも裏表がある。アリアドネはテセウスを純粋に愛しているみたいだけど、裏に回ると、自分をどう見せるかしか考えていない「プリマドンナ」だったりする。台本的には前半と後半が、ミスマッチしてしまったのが魅力的ですね。これが音楽面ではどう戦略的に書き分けられているのか、今はそのあたりに興味を持っています。人の生きかたに裏と表があるように、舞台芸術にも二つの面がある。アートとエンターテインメントが、ギクシャクしながら絡み合っている。観念的な世界とエンターテインメント、両者の役割分担が面白い。
 他にもオペラだと『パリアッチ』などがありますし、ミュージカルには昔から楽屋ものが多い。こうした裏と表の対比が、芝居だと観念的になる恐れがあるんですが、音楽が絡むとエンターテインメントとして、「劇場の中の劇場」を楽しく提起できる気がします。
 台本には、オペラを依頼した金満家本人が出てこないのも面白いですね。おそらく客席の方にいる。その金満家は二期会の会員のみなさんなのか、劇場を監督しているお役人なのか、まあよくわからないですけれど、潜在的な劇場のオーナーであり、芸術のメセナであり。私はいま新国立劇場の演劇の芸術監督というポストにいるんですが、作曲家と事務方らしき人物がああでもないこうでもないと話すあたりなんて、身につまされます。観念と現実の葛藤が身に沁みる。(笑)
 自分が最初に芝居でギョッとした、インパクトを受けたのが、ピランデッロの「ヘンリー四世」という作品なんです。これは彼の代表作「作者を探す六人の登場人物」と同じく、「劇場の中の劇場」を描いたものですが、高校生のころ、芥川比呂志さん主演の舞台を大阪で観ました。あれが自分の原点なんですよ。そういえばピランデッロの作品を、誰かオペラにしないかなと思ってるんだけれども。
─今回の演出は、どのようなものに?
 まだこれからですが、舞台の面白さ、舞台裏の上に起きることが人生のレファレンスになるようなものにしたいんです。つまり、あるとき舞台の上で起こっていることが、誰の人生のどこで起きても不思議ではないんだ、ということですね。この作品は前半が舞台裏で後半が表というだけの、単純な構造ではない。
 後半のオペラ部分には、洞穴が出てきます。芝居の世界では、舞台のプロセニアム・アーチを洞穴の入り口に見立てることがよくあるんです。その穴の中では、現実を超えたイリュージョンが起きる。このオペラには混乱がいくつもあるんですが、そこをほっとかないで追いつめて考えてこだわっていくことで、裏を表に、表を裏に反転させる鍵が見つかるんじゃないかな、と。
 テノールの扱いも奇妙ですよね。テノール歌手というのは、危険なカーブに挑むF1レーサーみたいなところがある。アリアドネの方も、ただの孤島の乙女ではなく、同時にプリマドンナである。こうしたプリモへの偏見、プリマへの偏見という観点から見てもこのオペラは面白い。勿論、出演される皆さんは、理性と知性と音楽性をそなえた方ばかりとは思うんですけれど(笑)。
鵜山仁(うやま・ひとし)
◎慶応義塾大学フランス文学科卒業。舞台芸術学院を経て文学座附属研究所に入所、現在、文学座演出所属。1983年より約1年間、文化庁派遣芸術家在外研修員として渡仏。主な代表作に「グリークス」「缶詰」「ザ・ウィー(堰)」「雪やこんこん」「父と暮せば」など。またオペラでも数々の話題作をてがけている。新国立劇場での演出は『コペンハーゲン』の他、『リア王』『新・雨月物語』『新・地獄変』『花咲く港』『カエル』を演出。2007/2008シーズンは、「三つの悲劇」─ギリシャからVol.1『アルゴス坂の白い家』、『オットーと呼ばれる日本人』の演出をてがける。新国立劇場演劇芸術監督。