「走っていて気持ちがいいと感じる場所は、朝日が昇り始めた時間の首都高4号上りの永福を過ぎたあたり。それと中央道の勝沼インターを降りるとき、そこに広がる甲府盆地の夜景は最高ですね」。バスバリトン歌手山下浩司さんの趣味はクルマだ。

　小学生の頃に当時流行していたスーパーカーに夢中になり、18歳で運転免許を取ると、すぐに中古のフォルクスワーゲンのタイプ3を買った。一般的なビートルではなく、そのセダン・タイプであったことに強いこだわりがある。「エンジンはRRで、ポルシェと同じ水平対向なんですね。1973年製でしたから、もうボロボロで、ダッシュボードは熱で溶けてしまったんです。坂道ではベタ踏みでも60キロしか出ませんし(笑)。でも、楽しかったですよ」

　それからは何台も乗り継ぎ、現在は父君の形見でもあるベンツSLKのハンドルを握る。憧れは、ポルシェ。ポルシェに惹かれるのは、そのエンジン音にもあると山下さんは力説する。「ちょっとガサガサした音でかっこいいんです。歌手に喩えると、トーマス・アレン(※1)かな」。彼がもっとも欲しいポルシェのケイマンは、ミッドシップで運転席の後ろにエンジンが付いており、「その音がよく聴こえるんです」と目を輝かせる。

　エンジン音では、マセラティの官能的なところも好きだという。「ヘルマン・プライ(※2)の歌声を思い出させます。そういえば、ある学者がマセラティのエンジン音はストラディヴァリウスの音の周波数に似ているという論文を書いているほどなんです」。運転中に、マセラティが前を走っているのを見ると、カーオーディオで聴いているカウント・ベイシーの音楽を止め、窓を開けてその音に聴き惚れてしまうそうだ。

　オペラの稽古に行くときも、自家用車をなるべく使う。「みんなで練習したあとは、プライベートな空間に浸っているという感覚が好きなんです。人見知りなので(笑)」

　練習の合間などにはコーヒー店にも足を運ぶ。東京文化会館での仕事のときは、東上野の北山珈琲店。豆と淹れ方にこだわりが強く、後味を長く楽しめる濃いコーヒーだ。西新宿の二期会稽古場の近くの珈琲専門店MAX(マックス)に寄ることも多い。昭和の雰囲気が良いので、譜面を見るなどして、何時間でもいられるという。

　オペラ歌手として、二期会でもドイツものを中心に活躍している山下さんだが、最近は「イル・デーヴ」のリーダーとしても忙しい日々を送る。「総重量約500kgの重量級男声ボーカル・ユニット」というコピーにあるように、メンバーはフトメンの大食漢ばかり。地方公演では、必ずその土地の美味しいものを食べ尽くす。「最近、担当マネージャーのお腹周りも怪しくなってきました(笑)」

　今回の取材の場所は、ポルシェのショールームに接したレストラン。その憧れの一台が見える店内で、そのオーナーになるという夢の実現については、「今の車の車検の関係で、五年後くらいに……買えればいいかな」とはにかみながら答えてくれた。

※1 サー・トーマス・アレン　Sir Thomas Boaz Allen
(1944年生～)英国出身のバリトン歌手。ロイヤル・オペラ、スカラ座、メトロポリタン歌劇場、ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場を中心に国際的に活躍。

※2 ヘルマン・プライ　Hermann Prey
(1929年～1998年)ドイツのバリトン歌手。1960年から1970年代まで、メトロポリタン歌劇場で活躍。『フィガロの結婚』のフィガロ、伯爵、『魔笛』のパパゲーノを得意とし、『こうもり』等オペレッタも好んだ。シューベルトの歌曲の優れた録音を残している。