文=室田 尚子
オ
ペレッタのことを「オペラの堕落した、しかし魅力的な娘」とよんだのは19世紀フランスの作曲家サン=サーンスだが、確かに、オペレッタを観るのは楽しい。オペレッタのテーマはたいてい男女の恋愛で、浮気があったり、やきもちがあったり、純愛があったり、不倫があったり、でも最後はみんな丸くおさまってハッピー、めでたしめでたし。肩肘はらず、リラックスして楽しめるのがオペレッタのイイところだ。オペレッタとオペラの最大の違いは、オペラがすべて歌でできているのに対して、オペレッタでは歌以外の部分は登場人物たちがセリフを話すということ。つまり、オペラよりもお芝居によったものということができる。であるから、オペレッタでは、歌と同じくらいセリフの部分が重要になってくる。そこで問題になるのが、「言葉」だ。私の情けない経験をひとつ、暴露しよう。それは、音楽の都ウィーンを訪れたときのこと。私は、「オペレッタの殿堂」といわれるウィーン・フォルクスオーパーへと出かけていった。歴史と伝統を感じさせるその建物に一歩入ると、そこはおとぎ話のようにきらびやかな世界。美しく着飾った貴婦人や素敵な白髪の紳士が、ホワイエをいきかっている。演目はもちろん、ウィンナ・オペレッタの華、ヨハン・シュトラウスの『こうもり』。それまで日本で何回か『こうもり』を観ていたのでストーリーはアタマに入っている。私はワクワクしながら席に着いた。おなじみの序曲が始まる。幕が上がると、舞台はウィーン。ウィーンでウィーンのオペレッタを観る!何と素晴らしいことだろう! |
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そんな私の高揚が一気に打ち砕かれるのに、そう時間はかからなかった。フォルクスオーパーなのだから歌はもちろん、セリフも当然ドイツ語。ドイツ語が少しは話せるといっても、その場に応じてポンポン入るアドリブや、ウィーンっ子にしかわからないようなジョークはとても理解できない。しかも、そのセリフ回しの速いこと速いこと!周りの紳士淑女がドッと笑い声をあげる場面で、私はひとり取り残され、汗をかきながらひきつった笑みを浮かべるのが精一杯だった。 オペレッタの罠(!)は、実にこの「言葉」にあったのである。ストーリーや音楽は、たとえ言葉がわからなかったとしても楽しめるが、セリフの部分だけはいかんともしがたい。日本での上演ならば字幕がつけられるので大体のところはわかるものの、それでもささいなジョークやアドリブまでカヴァーできるわけでもない。そしてオペレッタの魅力とは、この、字幕では絶対にカヴァーできない部分にあるのだ。これだけが、オペレッタを観る時に立ちはだかる、日本人の私たちにとっての壁である。「わからなくてもいい」と開き直るのも手だが、そんな日本人がオペレッタをすみずみまで楽しむために編み出した技(?)が、日本語上演なのだ。「オペラは原語でやるもの」という最近の慣習からするとまさにコロンブスの卵。だが、こと「お芝居重視」のオペレッタに関しては、思い切って日本語で上演してもらった方が、観客は作品をじゅうぶん堪能できるし、何よりウィーンで私がかいたような冷や汗をかかなくてすむ。 二期会は伝統的に、オペレッタでは日本語上演を行なってきている。『こうもり』も例外ではない。そこに、「日本で日本人によるオペラ」を上演する団体としての気概を感じる。確かにオペラやオペレッタはヨーロッパのものだが、それを日本人が上演するのなら単なる「ものまね」におわるのではなく、新しい可能性を切り拓いてみせる必要がある。二期会は様々な方法でそれを実現してきているが、そのひとつの方法が「オペレッタの日本語上演」なのだと思う。 |
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さて、その『こうもり』が、2001年以来12年ぶりに二期会の舞台にかかる。しかも満を持しての新演出だ。日本語歌詞は、二期会伝統の中山悌一訳。そしてセリフの部分は、なんと演出の白井晃が書き下ろすのだという。白井は自らも役者として活躍するとともに、演出家として多くの演劇を手がけてきている。もともと、白井はコメディを得意としていたという情報もあり、いったいどんな言葉のかけあいが飛び出すのか、今から楽しみだ。ちなみに今回のキャスティングをみると、近年の「二期会オールスター」といった顔ぶれが並んでいる。これは、歌はもちろんのこと、お芝居もじゅうぶん期待できるメンバーだ。芸達者な歌手たちにコメディセンスのある演出家、そしてわかりやすく美しい日本語。まさに、日本でオペレッタを観るよろこびを存分に味わえる公演になるのは間違いない。 |
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