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オペラを楽しむ

エフゲーニ・オネーギン
「詩的描写による19世紀ロシアの社会」


文・山下健二

京二期会が満を持してチャイコフスキーオペラの傑作「エフゲーニ・オネーギン」を原語ロシア語で上演することは誠に喜ばしい出来事である。
上記の副題「詩的描写による19世紀ロシアの社会」とは、ロシアの文芸批評家ベリンスキー・V・Gがプーシキン・A・S原作の長編詩小説「エフゲーニ・オネーギン」(以下「オネーギン」)に関して述べている言葉だ。事実、詩人プーシキンはこの叙事詩のなかに、ロシアの大地や自然、当時のロシア人の生活、習慣を見事なまでに描写している。長大なスケールの叙事詩「オネーギン」は、世界の文学史上初めて韻文で書かれている。当然のように、この作品をロシア民衆文学の最高峰、さらに19世紀ロシア社会の百科事典と評する専門家は多い。
創作には8年の歳月が費やされたが、プーシキンにとってそれは詩人として円熟の域に向かう時期でもあった。1831年(プーシキン、わずか32歳)に完成し、2年後の1833年に発表された8章からなる大作「オネーギン」は、作家自身が最も好きな作品であり、詩人としての自らの魂が存分に具現された作品でもある。プーシキンは「オネーギン」と共に成長し、章を追うごとに詩人としての成熟の度合いを高めている。特に後半の2章は、その前の6章と大きな違いを見せており、それは詩人として彼が創作芸術の最高の領域に達していることを示している。「オネーギン」は、出版と同時に歓喜をもって読者に歓迎され、深い感動と大きな反響を呼び起こす。そして当時の、さらにその後のロシア文学やロシア社会の発展、風習にきわめて大きな影響を及ぼす。また、この作品は、ロシアの人々が社会的意識に目覚めるきっかけともなった。「オネーギン」と同時代、それ以降の時代に、社会の振り子は大きく揺れ、新たな価値観、要求、アイデアが求められ、やがて社会の発展過程で「オネーギン」の時代は追い越されてはいくが、どれほどの時を隔ててもロシアの人々はずっと「オネーギン」を追い求め、愛おしさと感謝の気持ちで読み続けることだろう。「エフゲーニ・オネーギン」は、日本語やエスペラント語をはじめ多くの外国語に翻訳されている。
作品は1819年から1825年まで、つまりナポレオンに勝利した後のロシア軍の外国遠征からデカブリストの乱までの時期を捉えている(デカブリストとは武装蜂起の中心となった貴族将校たちを指し、反乱が12月(ロシア語でデカーブリ)に起こされたことからデカブリスト(十二月党員)と呼ばれた。デカブリストの乱は、ロシア史上初の皇帝専制と農奴解放を要求した闘争と位置づけられ、以後のロシアにおける革命運動に大きな影響を与えた)。この作品には歴史上の人物は一人も登場しないが、それでもなお歴史小説と位置づけるべきであろう。その歴史的意義をさらに高めているのは、ロシア史上初めて、輝かしいばかりの詩の形態で書かれていることだ。そのなかでプーシキンは単に詩人としてではなく、社会的自覚に目覚めた一人の人間としての顔を覗かせている。その功績は計り知れない。
プーシキンは、自分が生きていた時代、その日常性のなかに潜む俗悪さを冷静な目でありのままに描写している。それまでのロシアにはまともな小説がなかったことを思えば、散文ではなく詩の形態で書くという勇敢な詩人魂を称えなければならない。また、その「オネーギン」が大成功をおさめたことは、勇気のみならず、彼が偉大な天才であることの証でもある。
 前置きが長くなったが、プロットに触れていこう。簡潔な筋立てのなかで愛の葛藤が描かれている。しかし、この大作の主題は、農奴制時代の農村、モスクワやペテルブルグの上流社会という環境に住む二人の主人公、タチヤーナ・ラーリナとエフゲーニ・オネーギンの感情や義務感あるいは責任感という永遠の課題である。
ある日、オネーギンは、ドイツ帰りの友人である詩人レンスキーと共にラーリン家の姉妹を訪れる。タチヤーナがレンスキーの恋人だと思いこんだオネーギンは、レンスキーとの会話のなかで自分の勘違いを知って、あくびをしながら「私が君のように詩人だったら彼女を選ぶのだが」と言う。冷淡で無頓着なオネーギンは、わずかな観察で二人の姉妹の違いを見抜くが、情緒豊かな熱情家レンスキーは、愛するオリガが決して理想の女性ではなく、単なる素朴で可愛らしいだけの女だとは気づいてもいない。ましてや彼女のために親友と決闘するリスクを犯す価値もないとは。
一方、恋愛小説を読みふけり、胸のうちに熱い情熱を秘めた姉タチヤーナは、一目見ただけでオネーギンのなかに自分が描いていた理想の男性像を見て、その日のうちに彼に宛てた手紙を認める。それは思いの丈をぶつける熱烈な愛の告白だった。だが次の日、彼女はオネーギンの冷たい拒絶に会い、冷酷な宣告を受ける。繊細な頭脳を持ち、人間の心理を知りつくしているオネーギンは、それまで見てきた媚びを売るだけの女性たちにはないタチヤーナの純粋な気持ちに心を動かされない筈はない。しかし、愛は意思や理性から生まれるものではない。愛が感情や情熱の産物だとすれば、オネーギンはそのいずれをも持ち合わせていなかった。ところが、純な田舎娘タチヤーナを拒絶したオネーギンは、後に人妻としてペテルブルグの舞踏会で出会った貴婦人タチヤーナに強烈な恋心の衝動を覚える。
話を元に戻そう。ラーリン家で催されたタチヤーナの命名日(ロシアの教会が決めた名前をもらった聖人の祝日)のパーティーで、オネーギンは退屈凌ぎにレンスキーの許嫁オリガを誘惑する素振りを見せ、レンスキーをさしおいて一晩中オリガと踊ったためにレンスキーから決闘を申し込まれ、図らずもレンスキーを殺してしまう。
親友を決闘で失い、妻も仕事もないオネーギンは放浪の旅を重ね、26歳で再びペテルブルグへ舞い戻るが、年老いた退役負傷軍人の妻に収まっている社交界随一の美女タチヤーナと偶然にも出会い、嘗ての自分が取り返しのつかない大きな過ちを犯したことに気づくが、時すでに遅し!
ところで、チャイコフスキーと「オネーギン」の出会いも興味深い。モスクワ音楽院での教職から離れた作曲家は、後にオペラの台本作りにも関わった作詞家シロフスキー・K・Sの屋敷の離れに移り住む。そこはモスクワ郊外のグレボヴォ。作曲家にとって最上の環境だ。時は1877年5月。既に三つのシンフォニーと四つのオペラを発表して円熟期を迎えた37歳のチャイコフスキーは、バレエ音楽の傑作「白鳥の湖」、ピアノ・コンチェルト1番などでヨーロッパでも広く知られていた。
ある時、次のオペラの題材探しが友人たちとの話題に上り、歌手のラヴロフスカヤが「オネーギン」を薦める。チャイコフスキーは早速小説を手に入れると徹夜で読破したばかりか、その日のうちにプーシキンのテキストをおおよその台本に書き換える。友人に宛てた手紙で作曲家はこう述べている。「エチオピアの王女やファラオ、毒殺などのテーマの煩わしさには辟易だ。今度のオペラでは舞台効果や動きは少ないだろう。しかしその欠点は、プーシキンが描く主題、詩的世界、人間性、簡潔な筋立てと共に天才が作り上げたテキストによって、跡形もなく打ち消されてしまう。」
「オネーギン」に白羽の矢が立てられた理由は他にもある。プーシキンの作品と同じように、チャイコフスキーはミリューチナという女性から愛を告白する手紙を受け取り、間もなくその女性との結婚を決意する。作曲家にその決意を促した理由は明らかではない。オネーギンと同じ過ちを避けたかったのだろうか? しかし、この結婚は短期間で破局を迎える。いずれにしても作曲家の運命は、オペラ「エフゲーニ・オネーギン」の創作を背景に進むのだった。
台本は、プーシキンの小説に若干の補足的な要素を加えて演劇的に脚色したものとなったが、チャイコフスキーは当初この作品を「オペラ」とは呼ばず、叙情的場面(リリーチェスキエ・スツェヌィ)とした。「タチヤーナのイメージにすっかり惚れ込んでしまった」との本人の言葉通り、第1幕の2場でチャイコフスキーは、「手紙の場面」でプーシキンが描き出したタチヤーナの心理と感情の陰影や起伏をわずか15分のアリアのなかで見事に表現している。
オネーギンは決して悪人ではない。プーシキンに言わせると「あなた方や私、世界中の誰とも同じ輩だ」。しかし端的に言えば、彼は悩めるエゴイストだ。それはチャイコフスキーのオネーギン旋律にも表れている。一方、夢見る詩人レンスキーが決闘の前に歌うアリア「私の青春の日々」では、この若者に対する作曲家の思いや愛情を汲み取ることができる。終幕で歌われるタチヤーナとオネーギンのデュエットは、このオペラのクライマックスであり、圧倒的迫力で我々を魅了する。
チャイコフスキーが渾身の魂を込めて完成させたオペラ『エフゲーニ・オネーギン』!
掲載写真
新国立劇場:アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(1799-1837)
スロヴァキア国立ブラチスラヴァ歌劇場の公演(ペーター・コンヴィチュニー演出)
山下健二(やました・けんじ)
◎ロシア語翻訳家。(株)アンヴィックス代表取締役。1937年中国ハルビン生まれ。東京芸術大学声楽科卒業。男性ヴォーカル・カルテット「ロイヤル・ナイツ」バリトン。1966年〜1978年に8度のロシア東欧演奏旅行で500回のコンサート。1991年アトランタ(米国)、パリ、ロンドン、アムステルダムでのコンサート・ツアー。2008年3月まで東京芸大非常勤講師(ロシア声楽曲歌唱指導)。訳書に「闘う白鳥」マイヤ・プリセツカヤ自伝(文藝春秋社)ほか。