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オペラを楽しむ

「オペラの楽しみ」 室田尚子

第11回「なぜ? どうして? オペラあんな話こんな話 その1」
『ラ・トラヴィアータ』

  オペラも続けて色々な舞台を観ていくうちに、「この作品のこの場面が大好き」とか、「このストーリーは納得できない」といった、ちょっとしたこだわりのようなものが生まれてくるのではないでしょうか。ここからは、室田尚子的「どうしてもここが気になる!」オペラのポイントを少しだけご紹介。ストーリーの矛盾、あるいはこの人間関係が納得できない!などなど、超極私的な鑑賞ポイント(というか、話のネタ)を披露してみましょう。果たして読者の皆さんに共感していただけますでしょうか?!  
 では初回は、ヴェルディの『ラ・トラヴィアータ』に関して。


椿とスミレ



 イタリア・オペラ史の中でも1、2を争う名作『ラ・トラヴィアータ』。日本では「椿姫」と訳されることの多いこの作品ですが、原題の意味は「道を踏み外した女」。えーと、なぜそれが「椿姫」に?「椿姫」というタイトルは、オペラの原作となったアレクサンドル・デュマ・フィスの小説「La Dame aux Camélias」からの訳出。調べてみますと、日本では明治35(1902)年に出版された長田秋涛訳によって、この題が定着したようです。原作の小説は、デュマ・フィスが実際につきあっていた高級娼婦マリー・デュプレシをモデルに描かれていますが、マリーが香りの強い花を嫌って椿を愛していたことをもとに、デュマ・フィスは小説の主人公マルグリット・ゴーチェに白い椿の花を身につける女性、という属性を与えています。
 しかし、ヴェルディのオペラの主人公は、マリー・デュプレシでもマルグリット・ゴーチェでもなく、ヴィオレッタ、つまりスミレ。第1幕で、愛の告白をするアルフレードにヴィオレッタが椿の花を渡して、「この花がしおれるころに」再会を約束する場面に、わずかに「椿姫」の名残が顔を出すばかりです。それなのに日本では、つねに「椿姫」という原作の訳題が使われ続けているのはどうなんでしょうか。そもそも、「『椿姫』のヴィオレッタってね…」という会話が交わされるたびに、「椿のスミレ? 何それ?!」と違和感を感じていたのは私だけではありますまい。今回、二期会で行は原題のまま『ラ・トラヴィアータ』を使用するとのこと。やっと違和感を感じずに舞台に没頭できそうです。




キーパーソンはお父さん?!

 


2005年6月 東京二期会オペラ劇場『椿姫』
指揮:アントネッロ・アッレマンディ 
演出:栗山昌良 佐々木典子(ヴィオレッタ) 井ノ上了吏(アルフレード) 
直野資(ジェルモン)
撮影:鍔山英次 文京シビックホール
 『ラ・トラヴィアータ』全曲の中で、もっとも印象に残るアリアは何でしょう。私は悔しいけれど(なぜ悔しいのかは後述)第2幕でアルフレードの父ジェルモンが歌う「プロヴァンスの海と陸」をあげます。ヴィオレッタに裏切られたと思い込んだアルフレードを故郷に帰ろうとなだめるジェルモン。故郷の風景に託した父親の愛情が見事に感じられる名曲です。
 でも、ちょっと待って! アルフレードがこんなに傷ついているのは誰のせいなんだ? ジェルモンが影でヴィオレッタに身を引くように迫った結果がこの息子の涙じゃないのか?
 そもそも自分で別れさせておきながら、「息子よ、故郷はいいぞ」なんて、このお父さん、ちょっとズルくないですか?!(だからこのアリアがナンバー1なのが悔しいのです)しかもジェルモン、この後、アルフレードが仮面舞踏会でヴィオレッタに札束を投げつけるという暴挙に出、舞踏会が騒然となっているところに突然登場! 衆人環視の中、息子を父親らしくいさめる、というカッコいい場面が用意されています。いやいや、だから待て待て!! アルフレードがこういう暴挙に出たのも、元はといえば(以下略)。
 私はいつもこの場面にくると、「だからオヤジ、なんでそこにいるよ?っていうか、そもそもアンタが別れさせなければこういう事態は起きてないんじゃないの?」という突っ込みを心の中でいれまくってしまいます。ヴェルディのオペラの台本は、少なからずストーリーに矛盾、というかムリがあるケースがありますが(『リゴレット』の悲劇なんかもそうです)、音楽が素晴らしく美しいので気にならないようですが。
 ひとつ断っておきますが、ジェルモンの父性愛というのも『ラ・トラヴィアータ』では重要なテーマの一つ。男女の愛から親子の愛まで、様々な「愛のかたち」を描き出しているのがこのオペラのポイントであり、そのためにはジェルモンの上記のような行動もストーリーにとっては必要なもの。それはもちろん十分わかっているのですが、私のようなひねくれ者は、「お父さん、ちょっとカッコよすぎない?」と思いながら、このドラマティックな愛の世界を堪能しているのです。