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キャストインタビュー[蝶々夫人]文屋小百合・小原啓楼

『蝶々夫人』 キャストインタビュー 文・香原斗志 写真・広瀬克昭

 

東京二期会の『蝶々夫人』は、繊細な表現力が身上の2人。

ともに初役だが、役にかける意気込みは負けず劣らず。

お2人が語る意気込みから、お涙頂戴に止まらない、

新しい、より深いドラマへの期待が深まるばかりだ。

バロックからプッチーニまでオペラで出会う役に魅せられて
[蝶々さん]文屋小百合
   
 「元々、プッチーニの世界が好きなんです。メロディックで台本もよくできていて、人を飽きさせない魅力を感じます。とくに『蝶々夫人』は学生時代から、いつか声が成長して歌えたらいいなと思っていた夢でした。オーディションがあるというので、これは受けるしかないと思い受けました」
 文屋小百合さんがそう語ったのは、意外だった。05年に二期会がニューウェーブオペラ劇場として上演したヘンデル『ジュリアス・シーザー』で、バロックの歌唱様式を踏まえた、すばらしいクレオパトラを歌った、あの文屋さんである。それが様式も表現方法もまるで違うプッチーニを?
 「クレオパトラでは、指揮の鈴木雅明先生に、大きい声は必要ないという歌唱法から、最終的には、その場の感情で自由な装飾を施せるところまでご指導いただきました」
 旋律にアドリブで装飾を施すのはバロック・オペラの肝だが、難度はかなり高い。よっぽどテクニックがなければ超えられないハードルだが、文屋さんは実に優雅に聴かせてくれたのだ。が、そもそも、
 「バロック作品ももちろん好きですが、感情がストレートに表現されているプッチーニの作品にとても魅力を感じます」
 そんな彼女が歌の道を志したのは、まだ子供のころ。
 「小学生時代は少年少女合唱団に入っていて、歌の楽しさを知りました。6年生の時、両親と将来の話をし、〝一本の進路の木を大切に育てなさい〞と言われ、歌の道を選びました。あまりの重大な決断に泣いてしまった記憶があります。中学から本格的に地元山形の歌の先生につき、音楽科のある高校、そして音楽大学へと進みました。元々はスポーツが好きな活発な子供で、剣道はずっと続けていました。袴姿で摺り足していたのが『蝶々夫人』に役立てばいいと思いますけど(笑)」
 もっと役立ちそうなのは、一昨年、出産を経験したことだろう。
 「蝶々さんって1幕と2幕で娘から母へと大きく変わりますね。以前は彼女は一途な恋心で愛する人を待ち続けていたと思っていましたが、自分自身も母となった今は、息子の父親を待つという母心が芽生え、それ故に3年の月日を信じ続けることができたのではないかと思うようになりました。母は強しです。私は夫や家族に支えられていますがそれでも子育てをしながら歌うのは大変です。でも強くならなければ。蝶々さんのように……。娘は2歳ですが、蝶々さんの息子も2歳のはずです。自分と重ね合わせられるという意味では、このタイミングで歌えるのは本当にありがたいですね」
 でも、そうすると、蝶々さんが息子を手放して自決する場面など、感極まってしまうのでは?
 「そのシーンを聴くと、ジワーッと涙が浮かんできますね。預けていた娘を迎えたとき 〝ママァーッ〞と駆け寄ってくると、いい練習になります」
 美声と繊細な表現力が傑出している文屋さん。そこに、母としての真実の感情が加わって、期待は膨らむばかりである。
強がりの裏にある弱さを声のドラマとして表現する
[ピンカートン]小原啓楼
   
 東京芸大出身のオペラ歌手は数多いけれど、小原啓楼さんのように博士号まで取得した例は珍しい。ラテン系の作品にこだわって歌う叙情的なテノールは、知をも兼ね備えているのだ。
 「大学時代は軽めの声でしたが、徐々にロマンティックな作品も歌うようになりました。最近はヴェルディやプッチーニなども多いのですが、ピンカートンは初めてです。声そのものが持つドラマを追求するのが、長年掲げている目標です」
 だが、ここに至る道のりは真っ直ぐではなかった。
 「工業系のソフトウェアの開発を3年弱やって、充実してはいたのですが、自分の特質を試したくなってしまって、丸2日寝ないで考えた末、清水の舞台から飛び降りるつもりで会社を辞めました。東京中の楽器店を探し回り、どうにか安い中古の電子ピアノを買って、ツテもアテもないままに音楽の道を志したんです」
 こうして27歳にして初受験で芸大に入ったが、一大決心の背景には少年時代からの思い入れがあったという。
 「僕は言葉で意思を伝えるのが苦手だったのですが、小さいころから合唱や独唱を通じて、言葉では伝えきれないものが、歌でなら通じ合えると思うようになった。会話ではないコミュニケーションとしての歌が、とても重要だと気づいたんです。十代半ばからパヴァロッティ、カレーラス、クラウスやタリアヴィーニなど往年のテノールを次々に聴き、聴けば見様見まねで歌いたくなって」
 サラリーマンを辞めて、そんな少年時代の原点に戻ったという。
 「大学時代は、ドニゼッティを中心に勉強し、大学院でもそのころの時代を研究して、最終的にはフランスのデュプレというテノールが1845年ごろに書いた教則本を全訳したんです」
 いわば歌唱史のエキスパートなのだが、そんな小原さんはピンカートンをどう歌う?
 「ピンカートンを単純に悪人とすると、ドラマが安っぽくなってしまいます。彼が1幕で、オレはアメリカ人だ、バガボンド(放浪者)だと高らかに主張する裏には、僕は男という生き物の根源的な弱さがあるように感じます。一見、かよわいバタフライと強いピンカートンに見えても、じつは弱いピンカートンがバタフライの強さに惹かれたんじゃないか。バタフライが一方的にかわいそうだという単純な形にしたくない、という思いがありますね」
 ステレオタイプな役作りを、小原さんは嫌うのだ。
 「役も舞台全体の有り様も唯一の正解を目指すことはない。〝解 〞はいくつもあるし、多様性は豊かさにつながります。たとえば『アイーダ』はスカラ座がいいけど、『蝶々夫人』なら東京がいいよ、というようになるといいな、と」
 バタフライは「母の強さ」で、こちらは声そのもののドラマとして歌われる、じつは「弱い男」。2人男女の運命が、いつになく気になる予感!